2020年9月28日月曜日

入食い・大漁・爆漁! 釣れた!アジ14匹!!

コンディションやや悪 海釣り3回目

天気予報はが曇り時々雨、降水確率50%という微妙なモノだった。前回同様、午前2時半に起床したのだが、雨こそ降っていないものの地面は濡れていて「いつ降ってもおかしくない」という感じだった。

でも3時に出発。「雨が降ったら帰って来ればいい」という軽い気持ちで出掛けた。

5時前に釣り場に到着。場所取りも成功したが、曇っていたので前回のようなキレイな星空はなく、風も強かった。コンディションは「やや悪」という感じだった。

写真は1時間程後の釣り場の様子。普通に「曇り」である。


そして、今回は試しに竿を代えてみた。

「代えた」と言っても新たに購入したのではなく、元々持っていた5m程の「のべ竿(名称不明:30年ほど前、子供の頃に買って貰った)を使ってみた。前回、近くにいたおじさんが、同じような竿でバンバン釣っていたのを見たからだ。

あれなら、新しい竿を買う必要もないしマネしてみよう‥と思ったのだ。

仕掛けは前回と同じサビキ仕掛けである。

一投目から違う感覚 ガツンと引きが‥

釣りを始めたのが5時40分だった。辺りが暗く風にも煽られ、仕掛けのセットに手こずってしまった。

一投目‥

サビキのコントロール方法もYoutubeで学んだ。魚が食付くのはサビキが降りて行くときだそうだ。「降ろして最下部でしばらく止めて待ち、そして上げる‥」の繰返し。降ろして行く時に魚が食付くことをイメージする‥前回と大きく変わった部分だ。

サビキの上げ下げを始めて程なく「ガツン」とした引きが来た。

竿を上げようとするとブルブルした感覚‥明らかに魚が掛かっている!慌てず騒がず引き上げたが、残念ながら仕掛けごと持って行かれた。サルカンと糸の結びが甘かったようだった。

残念だったが、完全な「ヒット」だった。しかも一投目。幸先の良さを感じながらすぐに新しい仕掛けを用意して再開。二投目‥またもや「ガツン」とした引きが来た。竿を上げると水面に魚が見えた。

大きい!!

大きさは、あくまでも今までの私の経験上の話である。一般的にはそれ程の大きさではないのかと思うが、20~30㎝程の魚だった。こんなの1匹でも釣れれば大満足だ!

いきなり強く引っ張る事のないように、なるべく魚の動きに合わせ、ゆっくりしながらもスピーディーに魚を引き上げた。今度は仕掛けを持って行かれることもなく、糸と仕掛けとサルカンとの連結もばっちりだった。

そして、見事に釣上げた。20~30cm程のアジだった。

身体に青味、尻尾に黄色味を帯びたキレイなアジ。あーYoutubeで見たやつと同じだ。あーオレでも釣れるんだ‥。やや興奮気味で胸がドキドキしていた。これなら持ち帰って食べられる!きちんとした「釣果」と考えられる!!

満足感と達成感と喜びと驚きと‥様々な感覚が一度に襲って来た。とにかく嬉しく、アジをすぐにクーラーボックスに入れた。仕掛けも無キズ。もはや大満足だったが、エサをセットし直してすぐに三投目に入った。

そして、また釣れた!!同じようなサイズのアジである。連続ゲット!こんな経験は初めてだった。その後のことは、あまり詳しく覚えていないのだが‥

思い描いていた私の海釣り

「(仕掛けを海に)入れては釣れ、釣っては入れる」の繰返しだった。感覚的には「入れれば釣れる」であり、こーいうのを「入れ食い」と言うのだろうと実感した。ひとつの仕掛けには針が4本ついているのだが、一度にアジが2匹釣れたこともあった。

7~8匹目以降は釣った数が徐々に分からなくなり、結局何匹釣ったか分からなくなってしまった。以前、子供達と行っていた渓流管理釣り場でもこんなことはなかった。釣り堀並‥それ以上のヒット確率だった。とにかく釣れることを楽しんだ。

そして、釣りを始めて1時間半ほど‥7時頃になってハッと我に戻った。

「食べきれない‥」

釣果は10匹以上になっていたことは分かっていた。1時間程で10匹以上である。私の釣り人生で最大、最上の釣果である。釣り続けて何匹まで行けるか‥興味はあったが、さすがに魚の命を粗末にすることもできないので、用意したエサは半分ほど残っていたが、7時の時点で釣りを止めた。

釣果はこんな感じである。


「釣れ過ぎたので釣りを止めた」のも初めての経験だった。そして、前回よりも早く切り上げ、早い時間に帰ったため、帰り道(一般道)の渋滞もほとんどなく、スムーズに帰宅出来た。

思えば、私はこんな釣りを思い描いていた。「早朝に行って2時間程釣りをやり、早い時間に帰る」‥今回はそんな「思い通り」の釣りができた。しかも超絶大釣果である。大満足だった。

素焼きと天ぷらと家族の空気

帰宅すると「どうせ大して釣れなかったんだろう」という家族の空気‥を通り越して「おとうさんの釣り」なんて興味も無くなった様子だったが、そんな家族の予想とは180度、540度、900度違う結果に家族も驚いていた。

ただ、釣れたはいいが、どう処理していいか分からない。とにかく釣り場からはYoutubeで学んだ通り「氷締め」をして、帰宅してから早速内臓を取り除く処理をした。内蔵処理については、以前の管理釣り場でのニジマス釣りの経験が生きた。内蔵処理用のナイフも持っていた。

写真は内蔵処理後のアジの姿である。


ちなみに「釣果14匹」はこの時初めて数えた。

そして、数時間後、こんな感じに。


昼食は試しに2本ほど「素焼き」した。こちらも超絶美味だったが、メインの天ぷら(夕食)は超・超・超美味であった。高校1年の長男の手も借り、夕方から「3枚おろし」をやった。私も含め、決して「上手い」とは言えない出来だったが、天ぷらには十分だった。

大漁の理由を考えながら‥20時間稼働は疲れた!

竿以外は前回と「同じ仕掛け」「同じエサ」「同じ場所」「同じ時間」‥である。結局、何故こんなに釣れたかは‥よく分からない。感覚的に竿を代えたことはあまり関係ないようだった。理由は、前回と同じような竿で私の隣の釣り人もバンバン釣れていたからだ。

極論だが「そこに魚がいれば釣れる」し「いなければ釣れない」だけなのかもしれない。今回はたまたま前者だった‥。海釣り歴3回程度の初心者が、ちょっとの思い付きで竿や仕掛けを代えたところで効果が出るほど甘くはないだろう。

ただ「釣れる」時にタイミングを合わせ、釣れるだけの仕掛けとエサを用意して臨まなければ釣れる魚も釣れない訳だから、釣れるチャンスをしっかり生かすことが大切なのだろう。さらに、もっと技術を向上すれば、そういった「釣れるチャンスを得る回数」も増えるのだろう。

前回、私は釣れなかったにも関わらず、近くでバンバン釣っていたおじさんたちのように‥。

釣りを終えてから、帰宅の運転、釣り道具の片付け洗浄、魚の内蔵処理、3枚おろし、夕食後の後片付け等々で夜中の2時半起床から夜10時の就寝までほぼフル稼働になってしまった。予想を上回る大釣果でかなり疲れたが、有意義な1日だった。


2020年9月21日月曜日

家事は大変 用意するのも片付けるのも4人分

私が昼食担当となる日

結婚して16年。一応、家事にはある程度関わってきたつもりである。買い物、炊事、洗濯、掃除(部屋、風呂、トイレ、庭)などなど、料理の「ウデ」というところは家内に遠く及ばないかも知れないが、それでも一通りの家事は出来るようにして来た。家内が体調不良で寝込んでしまうようなときは、何度となく代打もやってきた。


年ほど前から、子育ても一段落したため、家内がハーフタイムのパートを始めた。そのため、日によっては「家内パート、私休暇」という日が出て来る。そんな日の昼食担当は私となる。

家内が「専業主婦」だった頃は、「おとうさんの家事はおかあさんの代わり」だったが、今は、そういう空気でもない。キッチリ「役目」として「昼食を用意する」必要があるのだ。

だからという訳ではないのだが、「家事は大変だ」という事を、今日改めて感じた。

昼食はパスタ 今日は楽チンとおもいきや

今日は家内が出勤だった。昼食のメニューは基本的に家内が指定。冷蔵庫にある余った食材などを考えて決めている(‥ようだ)。今日の昼食はパスタ。

市販の麺を茹で、上にかけるソースも温めるだけ‥今日はちょっと楽チンかな‥と思った。ちなみにパスタは今日初めて作った訳ではない。今まで何度も作ってきたのに、なぜ「楽チン」などと思ったのか自分でも分からなかったのだが‥。


結論は「楽などではない!」ということだ!!


家族の昼食の準備はすべて4倍

なぜだか分からないのだが、その日はたまたま作るパスタの数を「自分の分」しか考えていなかった。最近は「家内パート、子供達は学校」なんて日もあり、一人で昼食を用意する日もあるからだろう。


いけね。今日は4人分‥。


そう‥パスタの麺は4束、茹でた鍋から取り出すときも重さは4倍、麺と和えるバターの量も4倍、フォークもスプーンも各4本、冷たいウーロン茶を注ぐコップも4個‥。すべて「1」と考えていたことが「4」となる衝撃‥。当然、これらはすべて食後に「洗い物」となるのだ。。


準備30分 片付け30分 食べるのは15分

高校1年生の長男、小学5年生の次男。最近は長男が、食べ終わるとすぐに「ごちそうさま」と言って自分の部屋に戻ってしまう。そうすると次男も真似をする。家族の昼食の時間は概ね15分。。特にワイワイと会話が弾む訳でもない。淡々と食べて終わる事の方が多い。


準備に30分、片付けに30分、‥でも食べるのは15分。。


「イクメン」などという言葉が取り沙汰される昨今。もはや「3食昼寝付きの主婦はお気楽」などと言い切る時代遅れ者はいないだろう。ただ、先日「1品料理は家内の手抜き」のようなダンナの意見は是か非か‥というアンケートを取るテレビ番組があった。

少し驚いたのは半分くらいが「賛成」していたところ。

賛成したダンナ連中は恐らく家事の実践経験が浅いかまたは「経験なし」なのであろう。1品料理であっても、家族分を準備してそれを片付けるとなると一大作業なのである。ダンナが「1品料理を手抜き」と言うのは、奥様が「残業しないで帰宅するのは手抜き仕事」と言ってるのと大差ないように感じる。


要は「相手が(家事でも会社の仕事でも)どのくらい手をかけているか知らずに言うんじゃない!」ということである。


‥ということで、この日は「家事は大変だ」と改めて思い知らされた日だった。


2020年9月19日土曜日

会社の負け組になって思うこと 会社人生で大切なコト

もう50歳、アレッ‥50歳、エッ50歳‥。

今年の6月に50歳になった。エッ‥50歳!‥アレッ‥50歳‥うん‥50歳‥なのだ。子供の頃、「50歳」は「おじさん」‥下手すると「おじいさん」だった。40歳でも十分おじさんなのに‥。

自分が30歳になった時、初めて「おじさん」という言葉を意識した。自分が「30歳になった」という事を実感するのに結構な時間が掛かったような気がする。それは「40歳」の時も同じだった。「自分が40歳になった」ことが受け入れられない‥というか、信じられなかった。

要は、それほど精神的には子供だった‥ということなのだろうか。

50歳‥なんてなおさらである。自分が「50歳」。もう「おじさん」も半ば過ぎ‥というより「後半」。下手したら「おじいさん」‥あー勘弁してくれ‥!

転職して20年 年下に頭を下げて来た10年

私は31歳の時に今の会社に転職したので、もう20年近く‥50歳にして役職なしの平社員。世に言う「会社員は課長になって成功」という状態からは程遠い状態。すっかり「負け組」となっている。意図しない異動から(要するにリストラ)年下に頭を下げる生活となってもう10年。よくここまで持ち堪えたものだと我ながら感心する。

31歳の時に専門職部門に経験者採用され、意気揚々と転職したが、所属していた部門の業績は右肩下がり、程なく営業部門への異動を命じられた。「やったこともない職種を受け入れるか」「退職か」の2択。これぞリストラである。当時40歳、産まれたばかりの子供がいる状態で退職の選択はどうしてもできなかった。

当時は、年下に頭を下げること、年下でも先輩として接することにそれほど苦がなかった。「一から出直し」という気持ちが強かったのか、「家族を支えたい」という気持ちが強かったのか、そもそも「私自身のメンタルが屈強だった」のか‥

‥すべて違う。

今思えば、私は「メンツ、プライド、意地」のような部分において鈍感だったのだろう。その善し悪しは考えないこととするが、決してメンタル的に「強かった」訳ではないのだ。「鈍感」⇒「くやしく感じない」⇒「怒らない」だから10歳以上も年下の女の子に「使われて」も平気でいられたのだ‥。

最低最悪からの脱出 続ければ光は見える?

会社でのキャリアは完全に半分に分断されてしまったが、何とか10年耐え忍んで、営業部門の仕事の感覚やコツのようなモノが身に付き、それに伴って自分なりのポリシーのようなモノも持てるようになって来た。決して「希望が出て来た」とも「人生に光が差して来た」とも言えないが、最低最悪からは抜けつつあるように感じられるようになった。


そこでひとつ思うことがあった。


オレはホントに負け組か‥。


これを「負け惜しみ」であると思われるのなら仕方ない。しかし、今となって、50歳となって、今の状況が不思議と世に言う「負け」のようには感じられない‥と素直に思えるのだが、その理由は‥

会社人生は継続する事が大きな土台

他の会社でもそうかも知れないが、若くして課長・部長クラスに昇進し、3~4年すると姿が見えなくなってしまう方がウチの会社には何人もいた。他の環境で更なる挑戦を‥という方もいれば、ストレスに耐え切れずに降格・異動・退職‥という話もある。

前者で成功すれば何よりだが、新しい環境で「一から始める」のだから、相応の苦労、ストレスを抱え込むことは否めない。ちなみに、ウチの会社では「出戻り」もたくさんいる。良い言い方をすれば「縁があった」のだろうが、悪く言えば「どの面下げて戻ってきたのか」である。ウチの会社でウマく行ったからといって、他でも上手く行くなんて保証はとこにもない‥後者であればなおさら‥退職して収入を絶たれれば、後は転落人生が待っているだけ。

何を言いたいのかと言うと、昇進を繰返して栄誉ある地位に就いても、事業で成功して大金を手にしても、結局は「継続」が土台になっているという事である。簡単に言えば年収3000万を5年続けるより、年収500万を40年続けた方がトータル収入は高い。当然自分は後者を目指すことになるのだろうが、「万年平社員」でも土台たる「継続」を維持している自分を「負け組」と表現する必要はないのかも知れない‥と思えるのである。

卑屈にならず向上心を

実際、今、特にカネに困っている訳ではない(裕福ではないが‥)。贅沢を言わなければ普通にそこそこ生きては行ける‥あの時(リストラされた時)、とち狂って会社を辞めなくて本当に良かったと今では思える。大金も栄誉も実力もなくても50歳までそこそこ生きて来れたのだから‥。

自己満足と言われても仕方ないかも知れない。ただ、「メンツ、プライド、意地」のために昇進や独立して大成‥を目指す気にはなれない。そんなパワーも無ければ実力も無い‥。

ほとんどの同期生や近い関係だった後輩が管理職に昇進する中、完全に取り残された自分。「負け組」となった自分ではあるが、卑屈にならず、向上することを忘れずに、今の仕事を「継続」することが何より大切に感じる今日この頃である。


海釣り2回目 やっぱりいい感じ‥しばらく続けそう

4連休初日の強行!場所取り成功!

土日の堤防釣りは混んでいるので場所取りが困難‥と前回の時に情報収集したのだが、9月後半は4連休もあり平日の休暇がなかなか取れないことがわかった。なので、「場所取り合戦あり」を承知のうえで今日、海釣り2回目を強行した。午前2時半起床、3時出発である(前回は4時起床、4時半出発)。

4時半に現地到着。まだ普通に夜で星がとてもキレイだった(喜)。

そして、超早起き(もはや夜だが‥)の甲斐あって場所取り成功!今日はこれだけでも大きな進歩かな‥とここで少しホッとした。

釣を始めた5時頃には夜明けとなったのだが、朝焼けがこれまたキレイ!(喜喜)。場所取りができた安心感も手伝って、灯台と星と朝焼けのコラボはサイコーだった。


釣り順調 荒れ気味の天気 気分良し 空には虹が!

昨日から強風。天気は今日の午後から崩れるとのことだったが、早朝はそこそこ晴れていた。風は「やや強」で心地よし、海も白波が立つ感じの「やや荒れ模様」。寒くもなく、いい感じだった。

こんな空気感の中でレジャー用のイスに座り、広い海を前に釣り糸を垂らす‥海釣りに思い描いていた光景が現実となった。「時間を忘れて過ごせる」ってこんな感じなんだなー。

 そんなところに良い追い討ち!

釣り開始から1時間ほど経過した頃に、何と空に虹が!


アーチ状の完璧な虹ではない。‥というか「かけら」みたいなモンだったが、「かけら」でも現場ではかなり大きく見えた。幻想的な朝焼け、広い海、心地よい風、空には虹‥これで「大漁」なら文句なし!なのだが‥

海釣り初釣果は5cmのフグ

写真が「今日の釣果」である。


‥そう、「釣れた」のである!1匹だけだったが‥でも今日のところは「釣れた」ことを喜ぶことにしようと思った。海釣りの初釣果である。5㎝程のフグだった。釣れた時も「あたり」なのか「水の抵抗」だったのかよくわからず、仕掛けを海から上げたら「フグが付いていた」という感じだった(笑)。1匹だけだったので、今日はリリースした。

今のところ、海釣りについては「空気感」「風景」に浸る事も大きな目的のひとつではあるが、いずれは釣果にも拘りが出て来るだろう(今日もかなり拘ったのだが‥)。こちらは、当面、研究が必要そうである。

何はともあれ、今日は「土日(しかも4連休)場所取り成功」「釣果あり(1匹だけど‥)」で大成果だった。

最後に‥行きはよいよい、帰りは大渋滞

今日は9時過ぎに釣りは終了した。子供のスイミングスクールの送迎は13時、十分過ぎるくらい時間の余裕はあった。前回は高速を使って片道1時間弱。今日は一般道を使うつもりだったので、2時間くらい見積もれば‥

と考えていたのが甘かった(汗)。

片付けを終え、駐車場に戻り9時45分に運転開始。国道に出た途端に車が並んでいた‥先に見える信号‥その先まで車が並んでいるのが見える‥これを「渋滞」と呼ぶ(涙)。

延々と伸びる渋滞。やっと解けたと思ったらまた新しい渋滞‥。こんな事の繰返し。カーナビは「〇〇㎞先、渋滞があります」のメッセージを連発‥。

4連休の初日とはいえまだ午前中‥そんな気持ちがどこかにあった。まだ早い時間だから下道(一般道)でもそれほど混んでいないだろうと‥何をボケたことを考えていたのだろう。

結局、自宅近くまで渋滞の繰返し。2時間の見積もりが約3時間半。スイミングの送迎には間に合ったもののギリギリ‥。

行きは下道(一般道)でも十分空いていた(早朝3時頃なので‥)が、帰りは地獄の‥怒濤の‥悲劇の大渋滞だった。

交通手段もナメて掛からずしっかり研究しよう‥と思った(汗)。


2020年9月17日木曜日

在宅勤務 家の中で浮いているおとうさん

在宅勤務導入による新しい生活様式

在宅勤務が本格的に始まってから、そろそろ5ヶ月になる。段階的に時差出勤、テレワーク、リモート朝礼、リモート会議も導入された。ウチの会社では「在宅勤務体制」が終わる気配はなく、当面はこのままのように見受ける。

無駄な通勤時間、無駄な会議、無駄なストレスが強制的に排除され、何となく会社が効率的に回っているように感じる。ただ、収益面では大打撃を受けていることは間違いなく、今は「コロナ社会へ対応」すべく商品開発や運営体制の改変が急ピッチで進んでいる。

なので、別にヒマではない。

在宅勤務でもフル回転、残業ありとなる日もあるが、上に書いたように効率的に回転している感じがあり、余計なストレスがない。の調子で収益回復までなんとか持ちこたえたいものである。

長男の素早い行動 おまえ、忍者か?

ところで、在宅勤務で自宅で過ごすことが多くなった分、家族と過ごす時間が多くなったのだが、早々に感じたのが「あぁ‥オレ、家族の中で浮いてるゎ」だった。

長年、早朝に出勤、帰りは22時過ぎがほとんどだった。平日は子供の起きている時間にはほぼ帰って来ていなかった。そして休日は家族をレジャーに連れて行ったり‥外出することが多かった。

なので、ある部分、子供の成長を見過ごしてしまったか‥

高校1年生の長男は既に「(おとうさんと)話したくない」「姿を見せるのもイヤ」といったオーラ満載。家の中にいて私の足音を聞き取っては、素早く姿を消す。。ダイニングで食事をしているのかと思って行ってみると姿が見えず、次男の部屋に居たりする。私がダイニングに入るや、しばらくすると次男の部屋からも姿を消し、いつの間にか自分の部屋に戻る。

今、在宅勤務の開始時間の影響で、長男と朝食の時間も重なるのだが、私の食事中には一切ダイニングには現れず、朝食を終え、私が出て行く足音を聞いて、すかさずダイニングに入っているようで‥その素早さ、段取りの良さは見事である(笑)。

同じ家にいて、話をしないだけでなく、姿を見ることもない(でも足音は聞こえる‥)

「おまえ、忍者か‥? 座敷童か‥?」

とツッコミたくなるような感じである。


長男がそうであれば小学5年生の次男もそれをマネする。長男ほど要領よくできないが、私を避けるような行動、態度は明らかに分かる。長男は年齢的なことも考えて放任することにしているが、次男はまだ「放任」はかわいそうな感じもするので、事あるごとに構うようにはしている。

家内とはここ数年完全に倦怠状態である。この辺は、いずれこのブログにも書きたいと思うので、詳細はその回に譲りたいと思う。

結局、長男、次男、家内ともに関りが薄いのである。普通に会社通勤をしている頃は全く意識していなかった現実を痛感させられた。明らかに「浮いている」。明らかに「3対1」になっている。

「家に居場所がないおとうさん」

ってこういう事なんだ。なーんだこういう事だったんだ。激しく納得。。


休日にはBBQをやったり、レジャーに連れて行ったり、大型連休には旅行の計画を立てて実践したり、家内の実家に泊まりに行ったり、食器洗いや、休暇には食事を作ったり‥なるべくいろいろやってきたつもりだったが、現実はこのザマ‥これが普通なのか、ウチがおかしいのか‥。在宅勤務が始まって、思いもしなかった家でのストレスを感じるようになった。

こんな状況の時はジタバタしても仕方ないので「普通に振舞う」ことにした。家の中で逃げ回る長男を尻目に、冷ややかな次男と家内に接する。食事中も会話もが弾むはずもなく、基本的に私がいると食卓は重苦しい。

そんなこんなで5ヶ月が経過した。「慣れ」とは恐ろしいものである。「冷ややかな空気」の中でも一応会話が生まれることもあり、「浮きつつ」も何とか家族の一員としての位置をキープできるようになってきた‥感じだ。

「新しい生活様式」

意外なところでこんな言葉が思い浮かんだ。


2020年9月13日日曜日

初めて海釣りに行って来た やっと実行した生涯の趣味 

ようやく実行した「生涯の趣味」 

今日、神奈川県にある「湘南港」に海釣りに一人で行った。たぶん、レジャーに子供を連れずに行ったのは十数年振り。「いずれやろう」などと思ってズルズルと何年経っただろう。「いずれは生涯の趣味にしよう」などと思ってズルズルと何年経っただろう。今日、やっと実行する事ができた。


子供の頃から釣りは嫌いではなかった‥あえてこんな言い方をするのは、決して「好きだった」「没頭していた」わけではないからである。小学生の頃、親に連れられて行った釣り堀でニジマスを釣った時の「ヒット」の感覚に魅了された口だ。

以来、釣り堀や川釣りには年に数回程度だが行っていた。小学校5、6年生の頃には釣具店に細かい道具を買いに行き、友達と川釣りに行ったりもしていた。

「いつかは海釣りを‥」と思って30余年(汗)。。結局、なんとなくやらずにここまで来た。結婚後、子供が生まれ、夏休みには「ファミリーで釣り」もやったのだが、子供たちのことを考え「確実に釣れる」ことを優先すると、どうしても選択肢は「釣り堀」「ニジマス」になる。

ちなみに、今は渓流の「管理釣り場」という施設があり(昔もあったかも知れないが‥)、きれいな渓流、自然の中で「しっかり釣れる釣り」が楽しめる。「釣ったニジマスをBBQで焼いてすぐ食べる‥」というのが、ここ十数年の私の「釣り」だった。

私の釣りと子供たちの成長

子供も成長と共に徐々に手が掛からなくなり(長男が高校1年生、次男が小学5年生)。親と行動を共にすることも少なくなったし、そもそも喜ばなくなった。釣りも「やるなら海釣りがいい」と言い出す‥。

コロナ渦の影響もあって家族で行うアウトドアの選択肢を増やしたかった気持ちと、上に書いた「生涯の趣味の実行」への気持ちと‥もう海釣りをやらない理由がなかった。

ただ、子供はもはや(長男は完全に‥次男はぼちぼち‥汗)「おとうさんと釣りなんて行きたくねぇ」なのだろうが‥子供たちには「そういった(海釣り)こともできる」ということを伝えておくだけでもよい。連休や夏休み、冬休みなどに、ふと「ちょっと行ってみたい」とでも思い立った時に一緒に行ければいいのだ。

ちなみに、「土日に行きたいのであれば、朝は3時起きだ」とも情報共有しておいた(笑)。

海釣りを思い立ってから実行するまで

思い立ってから実行までは結構早かった。早速、近所の釣具店で海釣り用品を購入。「もともと川釣りをやっていたので細かなモノは持っている」「堤防釣りが希望」「海釣り初心者」であることを店員さんに伝え、教えてもらいながら購入。案外すんなり道具は揃った。

そして、現場であれこれ苦労したくないので、予習は十分に行った。まずはリール竿の使い方と仕掛けの取り付け。家の中で完全実践した。釣具店の店員さんに教えてもらった「サビキ釣り」の「サルカン」を使っての仕掛けの取付け、リールを使っての仕掛けの上げ下げ、釣った魚の締め方、調理方法まで予習した。

ちなみ、に釣具店の店員さんは「サルカン」と言っていたが、昔は「ヨリモドシ」と呼んでいた。サルカンの結び方(私は間違って覚えていたので‥)や魚の締め方は、少しネットで検索するとYoutubeの解説動画がバンバン出て来るので不自由はなかった。ホントに時代が変わったモンだ。

いざ実行!4時起床でも間に合わなかった釣り場事情

準備万端!天気の様子も調べながら、今日を「実行日」に選んだ。本来は平日の休暇日が良かったのだが、仕事の疲れ具合や天気の感じを考えると、あれこれ考えているうちになかなか実行できなくなるので、とにかく実行した!4時起床もそれほどキツクなかったのは歳のせいなのか‥汗

一人で車に乗り、一人でレジャーに向かう‥十数年振りの「一人旅」である。車の中では杉山清貴のCDをかけ、気分は湘南海岸。。でも時代は完全に昭和‥という感じだった。途中、コンビニで朝食とクーラーボックス用の「氷」を購入。釣り場には6時前に到着した。

4時起床、6時釣り場到着‥。自分では十分素早い行動だと思っていたが甘かった。既に釣り場は一杯‥コロナ渦の影響もあるだろう。今日は日曜日という事もあるだろう。家族連れも多く、入り込む場所がなかった。

当然、一般的にも「割り込み」はヒンシュクだが、釣り場では特に狭いスペースに割り込むと、「お祭り」と言って他人同士の釣り糸が絡む場合がある。これほど気まづい空気はない。さらに今はコロナ渦‥「密」という面からも「狭いスペースへの割り込み」は好ましくない。

釣場の近所にある釣具店に「釣りエサ」を買いに行ったのだが、店員さんに聞くと「5時に釣場最寄りの駐車場が開場になるが、日曜は5時には駐車場入り口に行列ができる」とのことだった。貴重な情報である。

まぁ、今日はこんな感じかな‥。初めてだし、ある程度の要領と情報収集ができればいいか‥などという考えもあったので、釣りエサを買いがてら30分程釣り場をウロウロ‥今日は諦めて帰ろうかと思ったその時‥

思いがけなく感じる人情 仕事抜きの人間関係への戸惑い

「ねぇ、ココ入りなよ」

年配のオヤジさんが声を掛けてくれた。私からみ見ると服装もしっかりした「釣り人」である。

「オレ、今日はもう帰るから代わりにココ入りな」

私が釣り場をウロウロしているのを見て親切に声を掛けてくれたのだろう。心からお礼をしてその場所に入れさせてもらった。本当にありがたかった。。近所付き合いもほとんどなく、近年は年賀状とSNSだけでしか交流のない友達‥家族以外に‥仕事抜きに久し振りに感じた人間関係。戸惑いながらもホンワカした気持ちになった。

いざ釣り!2時間の大格闘!釣果は‥

実際に釣りを始めてみると、事はすんなり進んだ。仕掛けの取り付け、塩氷の用意、エサの取り付け‥川釣りでの経験と予習だけでなく、釣具店の店員さんや釣り場所を譲ってくれたオヤジさんのアドバイスなど「アナログ情報」も大変役立った。

釣を始めてから2時間。今日は家内がパートの日なので、子供たちの昼食作りは私が担当。そのため、当初から釣りは10時頃までと決めていた。最初は釣り場をウロウロしてしまったが、結局、2時間しっかり釣りを楽しむ事ができた。海釣りはやはり開放感がある。広々した眺めの中で釣りを楽しめる醍醐味を味わう事ができた。

ところで釣果は‥残念ながら0(ゼロ)匹だった‥汗汗

2回ヒットしたが、2回とも引き上げる時に逃げられてしまった。川釣りと堤防釣りの大きな違いのひとつを実感した。川釣りはヒットしたら1mも引き上げれば魚をゲットできるが、堤防釣りは5mほど引き上げなければいけない‥ここに経験の差が出てしまったようだった。

でも「ヒット」しただけでも十分だった。道具の用意、釣り場までの道のり、時間、代金‥一巡の「要領」を把握でき、「お魚ゲット!」一歩手前まで行けたのだから‥。

「生涯の趣味」と考えていたモノではあるが、新しい趣味がひとつ増え、十分満足して午前中には自宅に到着した。


2020年9月11日金曜日

胃ろう造設手術実施へ 可能性がつながった事への安心

胃ろう造設手術可能との連絡があった

昨日の夕方、母が入院する病院から連絡が入った。「胃ろう造設手術可能」「手術は9月下旬に行う」とのこと。とりあえずホッとした。直感的によかったと感じたのだが‥一体何に安心したのだろう。

正直に言えば「母の命が有限になることがなくなった」ことへの安心である。先日の主治医の話によれば「胃ろうを行わなければ生きられるのは2~3ヶ月」である。表現が不適切かも知れないが、その「2~3ヶ月」がとりあえず消えたのである。

主治医は「胃ろうを造っても効果が出るとは限らない。」とも話していた。そうかも知れない。生きられる期間が長くなる保証などどこにもない。でも、胃ろうを造りしっかりした栄養を取れば、長く生きられる可能性も出る。

その「可能性が出る」ことが大切なのだ。

私としては、コロナの心配が薄くなって「面会禁止」が解除され、子供たちと面会できるようになってほしい‥と願うのである。

ただ、一方で「いつ何が起きてもおかしくない状況」には変わりない。そもそも造設手術を行う9月下旬まで身体は大丈夫なのか‥なんてことまで心配になる。もう祈るしかないのかもしれない。

要支援1から要介護5まで

平成18年に父親が亡くなった。67歳だった。父は脳疾患で本当に「ぽっくり」と亡くなった。それまで普通に元気で、毎日早朝から近所の公園を散歩し、当時から足腰の悪かった母の介助をしていた。定年退職後の生活を元気に暮らしていたのだが、ある日突然倒れ、そのまま昏睡状態。一度も意識を戻すことなく、倒れてから一週間で亡くなった。

その日から、母の介助は私にバトンタッチされた。当時の母は歩くこともでき、ゆっくりであればほとんどの事を自分でできたので、介助と言っても、「スーパーへの買い出し」「月2度の通院の車での送迎」くらいだった。

思えばそれから14年。

当時「要支援1」だった要介護度は、今は「要介護5」。自宅からデイサービスに通うこともあれば、正式に老健に入所、特養に入居したこともあった。とある事情で在宅介護をしたこともあった(2ヶ月だけだったが‥)。また、認知症だけでなく、脳梗塞や膠原病など複数の病気を持つ母。病院への入退院を何度も繰り返した。

介助14年、とうとう私の役目は終わりか?

子供としての義務感‥もあったかもしれない。偽善的なことを言うつもりはないが、やはり、第一は「何とか母を安心させてやりたい」という気持ちが第一だった。今思えば、14年間、ここまでやり通せたのは、そんな気持ちがあったからなのだろう‥と思う。

そして、

こんなこと思ってはいけないかも知れない。それこそ不謹慎かもしれないが、胃ろうについて前向きでなかった主治医に承諾をもらい、造設手術を実現できたことで「私の役目は終わったかも知れない」という考えが脳裏に浮かぶ‥。

もう転院することも、介護施設へ移動することもないだろう。母が必要とするモノを病院へ運んだり、様々な書類の手続き、金銭的な問題を片付けて母を安心させることもなさそうだ。孫たちに会わせて喜ばせるということも‥現実的には‥もう出来そうもない。

後は手術が無事に終わり、母が静かな時を過ごせればそれでいいのかも知れない‥などと思った。

とにかく、9月の胃ろう造設手術が無事に終わることを祈る。


2020年9月10日木曜日

ネット副業の功罪 30代後半から40代の自分を振返る

副業の終了 キッカケはコロナ渦

私はつい半年ほど前までネット副業をやっていた。

クラウドソーシング、アフィリエイト、せどり、ネットオークション‥いくつか手を出したが、結局大きな収益を得るには至らなかった。

まぁ、本業の会社員をやりながら、平日の夜や休日を使っての事だったので「やった」などとホントに言えるかどうか分からない。大収益を手にしている成功者の皆さんから言わせれば「甘々」なのかも知れない。

それでも30代後半から十数年、一時は本業移行も考え、家内と大モメになったこともあった。そして結局断念‥情けない限りである。家内とモメた後も「いつかは‥」と思いながらやってきたが、今年の4月、今のコロナ渦が本格化してきた頃を最後にすべての副業活動を終了した。今は何も未練はない。

何冊も関連する本を読んだり、通信講座を受けたりもしたが、それらの資料も先日すべて処分。レンタルサーバも独自ドメインの契約もすべて打ち切った。

でも、このブログを立ち上げたのはなぜか‥ブログの記事を作ること自体は好きなようなので‥(笑)

無理な独立で破綻 臆病風が自分を守った

今年の4月後半、会社で「在宅勤務」が導入された(今も継続中)。週に2回ほどしか会社に行かない。片道約2時間の通勤時間が大幅に削減されたのだ。不謹慎かもしれないが「これで副業に使う時間を増やせる」と思った。

でも、そうならなかった。既に私の心の中で「副業」は終わっていた。

既にその頃、アフィリエイトのためにブログ記事を作ることに嫌悪感があり、家族の用を優先したり、ぼんやりyoutubeの動画を見たり‥作業が進んでいなかった。気持ちだけ「いつかは本業」「いつかは独立」などと思っていても、実際が伴っていなかった。そのことをハッキリ認識できたキッカケがコロナ渦だった。

在宅勤務開始に伴い、できるであろう大きな時間確保。でも、それを副業に使うという事は到底できなかった。理由は様々であるが、詳しいことは後日の記事に譲りたいと思う。

5月に入り、副業をせずに家にいると、何となくポッカリやる事もない感じだったが、気分的には重荷が消えた感じだった。あくまでもコロナに対する心配はあったのだが‥。

結果論ではあるが、上に書いた「家内とモメた」のが約2年程前。無理やり独立でもしていればどうなっていたか、考えただけでも背筋が凍る思いである。まぁ、そもそも「‥凍る」なんて気構えなのだから、独立なんて高根の花だったのだろう。一応、自分では「向いてなかった」とも考えるようにしている。

ネット副業の功罪 十数年の経験から

ネット副業には悪いイメージが強い。もちろん「情報商材」「セミナー勧誘」「転売」など、内容に問題のあるモノを高額で取引したり、検索エンジンのバグを利用して検索上位表示を狙ったり‥なんて事をする輩が活発に活動するのだから仕方ないかも知れない。

私もその辺に一度は踏み込んだ者だから人のことは言えないが、今ならハッキリ言える。「そんな商売は長続きしない」のだ。一時的に大金を手にできても、それを20年、30年続けるには相当な能力と努力と覚悟が必要。ネット上では多くの「成功者」のブログ記事など読んだが、私の場合、とうとう実際にそのような「成功者」に会うことは無かった。

ただ、ネットに関して多くの事を学び、実践することもできたし、少しならお小遣いを稼ぐ方法もマスターできた。仕事の上では「会社員」を本業としながら、楽しみながら少しだけ生活を豊かにする‥。こんな「正しいネットの使い方」を身に付けることができたのは、ここ十数年来の副業からの恩恵であると思える。

これからは、ネットも楽しみのひとつとして生活の一部としていきたい‥と素直に思える。


2020年9月9日水曜日

胃ろう造設を主治医が承諾 苦悩の1カ月

胃ろう造設に対する考え方は様々

昨日、主治医との面談があり、母への胃ろう造設について話し合った。

昨日は全日在宅勤務の予定だったが午後休に変更、やや急ぎ気味に仕事を片付け病院に向かった。7月に主治医から胃ろうの提案を受けてから1ヶ月程、ネットで調べたり、以前お世話になった特別養護老人ホームのケアマネージャーさんや地域包括支援センターのスタッフの方に意見を聞くなどした上で面談に臨んだ。

結論から言うと、胃ろうについて主治医の意見は「お勧めできない」、ケアマネさんは「やった方がいい(というニュアンスの意見)」、包括支援センターのスタッフさんは「ご本人(私のこと)が後悔しない選択を‥」。

要はそれぞれの立場で、バラバラなのだ。

ネット上でいろいろ調べてみると、「体力回復の見込みがある胃ろうは賛成」「延命目的だけの胃ろうは反対」というのが大方の意見のようだった。ただし、圧倒的に多いのが後者。胃ろうを検討するのは終末期の高齢者である場合が多く、「胃ろうによって生かされるだけ」のような状況を避けるために、近年は、あえて胃ろう造設を行わないケースが多いのだという。

意見は参考、判断は自分 命の期限を決める日

「本人(母のこと)の意思が最も重要」とのことだが、今は認知症の進行と体力の低下で寝たきり、コミュニケーションを取る事がほぼ不可能な状況。父親が亡くなり、一人っ子の私が第一介助者になって十数年になるが、胃ろうに対する母の考えなど聞いたことがなかった。

主治医の話では「口からの食事がほとんどできない状況」を鑑みると「胃ろうを行わなければ余命は2~3ヶ月」とのことだった。ただし‥、


「胃ろうを行ったとしても、それでどの程度延命できるかは不明」


らしい。ロクな希望がない‥。結局、「誰かがこういってるから」「大勢がどうだから」といったスタンスは通用しない。最後は自分で判断しなければならないようだ。大袈裟かも知れないが、いくら自分の親だと言っても「命の期限を決める」などという選択を迫られる日が来るとは夢にも思っていなかった。

胃ろう造設を希望 単なる延命ではない母の「役割」

1ヶ月、かなり悩んだが、最終的な私の意見は「胃ろう造設を希望する」にした。

コロナ渦で5ヶ月面会できなかったのも私の判断を大きく鈍らせる要因だった。直近の母の様子を知りもしないのに「判断する」ことへの抵抗もあった。なので、こんな風に考えた。

今、母がコミュニケーション可能な状況だったと仮定して、胃ろうの相談をした時に、母は「そこまでして生き続けたくない」と言う可能性はある。しかし、私から「私や子供たち(私の子、母の孫)が胃ろうを希望している。おばあちゃんに長生きしてほしいと願っている」と言えば、それを拒否することはないだろう。

主治医にもそのように伝え、胃ろう造設に同意してもらった。

確かに今の母への胃ろう造設は「単なる延命」かもしれない。でも、母にはまだ重要な役割がある。それは、高校1年生と小学5年生の子供たち(私の子、母の孫)への教育。命の重みを伝えることである。既に、幾度となく子供たちを病院に連れて行っている。ここ半年はコロナの影響で面会が叶わないが、生きてさえいれば、また面会できる日も来るであろう。話はできなくても、そのままの姿の「おばあちゃん」に会うことで、今の私には不可能な「命の重み」を伝えることが母にはできるのである。

外科医が加わっての本格的な検証へ 数日間の「判断待ち」

話し合いの後にいろいろな「同意書」にサインした。主治医の話によると、これから胃ろう造設を実際に行う外科医の検証が始まり、「胃ろう造設が可能かどうか」の検証を行うのだという。

これは意外な展開だった「主治医の同意=造設への動きが開始」ではなかったのだ。少し早合点だったが、「検証」はすぐにでも行われ「可能かどうか」の判断はすぐに出るそうだ。

なので数日は「判断待ち」である。


父命日の墓参り 18年目に思うこと

思い起こすこと18回 父が倒れてから亡くなるまで 昨日が父の命日。毎年の事であるが「倒れた日」の3月14日から「亡くなった日」の19日までは私の中で当時の回想が優先される。特にそうしようと思っているわけではないのだが、頭の中に蘇ってしまうのだ。 今年も例外なく父が倒れたあの日、泣...