しっかりした運動会に感謝
今日は小学6年の次男が通う小学校の運動会だった。「午前中だけの開催」「オンライン中継あり」「立ち見ポイントの指定制」などなど、今のご時世を徹底的に反映した形となっていた。特に3番目は、校庭のトラック上に立ち見場所がひとマスずつ書かれていたのには驚いた。。
先生方のご努力には頭が下がる思いだった。競技も「騎馬戦」や「棒倒し」などの密集するものはすべてカット。徒競走と密のない形にアレンジされたダンスのみであったが、昨年のような「明らかな練習不足」といった様子もなく、コンパクトながらしっかりした運動会になっていた。
何でも諦めずに工夫すれば何とかなるものだ‥と自らの身も引き締まるような気持になった。
終始一人で行動するおとうさん
高校2年生の長男は今日は学校のため運動会を見に行くことはできない。なので状況的には家内とふたりで運動会を見に行くことになるのだが‥今日は終始一人で行動した。
「ごはんを食べている音ですら嫌悪感を感じる」‥ホントにあるんだこんなこと。。ハタから見れば典型的な倦怠期なのだろうが「~期」で済む状況なのだろうか‥今の状況・心情が、限りある期間で終わるような気が全くしない。。
今日は主役である次男は運動会準備のため少し早く登校。家内と二人で朝食となる状況を避け、私はダイニングに入らず、食事はせずに、朝起きたら早々に着替えて小学校に向かった。
運動会の必須アイテム脚立の効果
運動会ではビデオを撮るが、ウチには2段式、高さ50㎝ほどの脚立がある。これが、運動会での撮影には驚くほど便利である。いわゆる「撮影場所取り」問題から解放されるのだ。
自分の子供が参加する競技はどうしても前で撮影したい‥でも脚立に登れば最前列に立つ必要はないのだ。数メートル後ろに下がっても「上から撮れば」何の問題もない。バッチリ撮影できる。しかも脚立を使っているおとうさんは、十数人いるので、上に立って見ていても何ら目立つこともない‥運動会において、脚立は大変役立つアイテムである。
脚立の隠れた重要な役割
そして、実は脚立にはもうひとつ、重要な役割がある。それは「一人になれる」ところだ。簡単に言うと、不意に人と目が合うような状況を避けられる‥のだ。
普段、ほとんど近所付き合いなどない私‥でも「顔見知り」はいる。校庭で顔を合わせれば挨拶のひとつもしなければならない‥脚立に乗っていると、そんな面倒な社交辞令を回避できる。。上にいるとほとんど他人と目が合わないのだ。私にとっては、これが結構快適なのである。
そして、今日はこのことを家内に適用できた。朝、顔も合わせずに家を出たが校庭で鉢合せになる状況は十分考えられる。でも脚立の上にいたことで「不意に目が合う」ような状況は一度もなかった。ただ、高いところにいるのだから、家内からは私を見つけることは容易だろう。。でも今の状況から察するに向こうから声を掛け来ることもない‥期待通り、脚立のお陰で「不意にバッタリ」は一度もなかった。
何やってるのだろう‥運動会の日にバラバラ
しかし、帰り道で「鉢合せ」となってしまった。私は気が付かなかったのだが、向こうが気付いたらしい。後ろから声を掛けて来たが、言った事はお決まりの「~してほしい」だった。今日は午後から子供のクラスのオンライン授業接続テストがあるので、それをやってほしいそうだ。
振り向きもせず、顔も見ず「わかった」とだけ返事をする。。数十メートル無言で同じ方向に歩き、曲がる必要のない曲がり角を曲がり私だけ遠回りして帰宅する‥ガキのような行動だが仕方ない。十数年来、家内に「大人の対応」をしてきた結果なのだから‥。
せっかくの子供の大イベント。かつては家内のおとうさんや昨年亡くなった私の母も呼んで大いにワイワイしたものだったが‥今は最低限次男が寂しがらないように‥校庭に顔を出してビデオを撮る‥姿を子供に見せるためだけに運動会に行っている。
変われば変わるものだ。。運動会の日ではあるが、もはや夫婦バラバラである。