2020年12月31日木曜日

令和2年を総括してみた コロナ、ネット副業終了、母親の死

令和2年大晦日、分散して行った大掃除も終了。あとはテキトーに地上波の年末特番やYoutubeを見て寝るだけ‥なので、今年一年を簡単に総括してみた。コロナのこともあるのだが、私にとっては生活様式や人生の方向性が大きく変わった年となった。

生活の激変 緊急事態宣言、休校、在宅勤務

今年は長男が高校受験だったので、2月まではほぼ長男中心で家族が動いていた。そうならないように努めてはいたが、家族内でやや重苦しい空気が漂っていたことは否定できない。結果的に長男は高校進学が決まり、ホッとした直後だった。2月下旬、最後の合格発表があり、進学先が決まった‥その数日後である。



3月から学校の休校。。

緊急事態宣言と学校休校。「お父さんもお母さんも経験したことがない出来事」が子供たちの公の場で起こる‥子供たちも驚いたろうが、私も驚いた。「こんな事ってあるんだ‥」という不思議な気持ちだった。長男の卒業式、謝恩会、部活動の引退式、高校の入学式等々はすべて「自粛形式」。次男も含め3学期と新年度の1学期は「自宅学習」となった。

6月から登校再開となったが、その後もいわゆる「第2波」「第3波」と終わりが見えない。大晦日の報道では「東京都の新規感染者1,300人超」である。子供たちは休みの日には友達と遊びにも行きたいであろう。ちょっと買い物にでも行きたいであろう。「100%NG」ではないものの「すべて自粛」である。ワクチンの話もかなり聞こえるようになったが、このトンネルはどこまで続くのだろうか‥。

ネット副業終了 蔑んで来た生き方を受け入れる

4月に約10年続けていた「ネット副業活動」をやめた。

決定的な要因になったのは「在宅勤務導入」だった。今まで本業の合間にやっていたネット副業。在宅勤務が導入されたことでネット副業にあてる時間が大幅に増やせることになったのに‥そうする気になれなかった。


もう、以前からそうだったのであろう。ネット副業にパワーを使い切れなくなっている自分がいた。いくら時間をかけても月の収入は5,000円にもならない‥これでは話にならない。。いつしか情熱も薄れ惰性になっていた感は否めない。

50歳という年齢になる節目の年ということも手伝って、私自身の中で何かが大きく変わった。ネット副業を本業にして会社を辞める‥という夢にも魅力を感じなくなってしまった。その結果アフィリエイト活動終了という形となった。

「人生の夢や理想」の部分については、機会があればまた別の機会に記事にしたいと思う。とにかく、今まで「社畜」「牛後」「ありふれた人生」と蔑んでいた生き方を50歳の今になって受け入れることにした。今さら‥今頃‥もうちゃんちゃら遅いが‥。

母の永眠 6年半の旅の終焉

実際、母の見守り・介護は14年続いたが、「6年半」は病院の入退院、介護施設の入退所の繰返しが始まってからの期間である。10月18日に母が永眠した。死亡診断書に書かれていた死因は「白血病」だったが、膠原病から始まり、脳梗塞、全身性エリテマトーデス、骨粗しょう症‥そして認知症。病院を何度入退院したか、何回救急車に乗ったか、いくつの介護施設に入所相談をしたか‥もう覚えていない。


6年半前、初めて脳梗塞で入院した時は救急車で病院に運ばれた。それから、病院、自宅、介護施設を巡り巡った。ひとつの場所に落ち着いたのは最長で1年‥。最後の病院だけ約2年半継続して落ち着く事ができたが、認知症が進みどのくらい認識できていたのか‥最期は病院で息を引き取り、真夜中に病院から自宅に連れ帰った。葬儀社の黒いワゴン車に乗っての帰宅だった。

最後の半年はコロナ渦の影響で見舞いすら禁止の状況だった。危篤となっても病室に居残ることも出来ず臨終に立ち会うことはできなかったが、亡くなる直前、意識はないであろうが子供たち(母の孫)に会わせることもできたので、もはや後悔はない。

ちなみに人が亡くなるということは、心情的な部分だけでなく、社会的にも大変な事なのである。親戚などへの挨拶・連絡、通夜・告別、四十九日の法要、保険、相続、銀行、郵便局、市役所等々に関する手続き等々‥遺品整理‥仕事の合間にすべて行うには半年は掛かりそうだ。。喪中で迎える新年となったが、正月は家族と墓参りに行こうと思う。

アフィリエイトの終了と母の死


それまでの経緯を述べることは後に回し、自身がネット副業、とりわけアフィリエイトにのめり込んでしまったことは失敗だった。少なからず人生の汚点と感じる。会社への反骨、普通の社会を受入れられない甘さ、「自分は人とは違う‥」という驕り‥、それがネット副業・アフィリエイトに取り組む私の原動力だった。

それを辞めた半年後に亡くなった母。50歳まで「ガキ」だった私がようやく「社会の仕組み」を受入れ‥ようやく「ちゃんとした大人」になったのを見計らって逝ったのか‥タイミング的にあり得ない事ではない‥母の意識はなくても、何かの感覚が私から母に伝わっているのなら‥。

コロナ渦で外出もままならず、やることもないので昨年を振返ってみた。令和3年も健康でありますように。


2020年12月27日日曜日

あーロクな事がなかった年末年始休暇初日

11連休なのに気分が下がることばかり

 年末年始休暇が始まった。11連休‥まぁ例年通りだ。普段はクリスマスの片付けから始まり、年賀状書き、大掃除、年末小旅行等々が概ねの年中行事だったのだが‥今年は大きく違う。


喪中のためクリスマスは自粛。片付けの必要なし。年賀状なし。コロナの影響で小旅行なし。初詣なし‥今日は東京都のコロナ感染者が900人を越えたそうで‥増える一方である。せっかくの連休で気分は上がるはずだが‥実際には下がる事ばかりだ。

今日は自動車保険の更新のため午前中は車の販売店に行った。車検などで何かと販売店に行くと、担当の営業マンが何かと営業をかけてくる。これがウザイのだが、向こうも仕事なので仕方ない‥とその辺は歳を取るごとに理解できるようになってきたのだが‥今日も案の定「JAF」の契約を仕掛けて来た。

今日は話の流し方に失敗した。話の流れで、空気で押し切られてしまった。普段は、そんな空気を察した時点で断るのだが、いつも接している割とキチンとした営業マンなので「1年だけお試しで‥」の殺し文句に引っ掛かってしまった。。

まぁ交渉負けと言ったところで、数千円の契約金なので大したことはないのだが‥それでも「まんまとやられた感」を感じながら帰宅。気分は下がった。

通信簿で大激怒 また気分が下がる

帰宅後、昨日子供が終業式で2学期が終わっため、もらってきた通信簿を見た。成績がまた下がっていた。加えて生活欄に「忘れ物多し」「整理整頓に難あり」の記載‥これは1学期も同様で、その時かなり注意した‥が同じことの繰返し‥テーブルを蹴り飛ばしての大説教に至った。


今日は徹底して勉強机の上から下、本棚、おもちゃ置き場等々‥すべてを掃除・整理整頓させた。当然今日は終わらない‥明日に持ち越しとなった。もちろん、すべて一人でやらせるのではない、要所は私も手伝いながら、整理の仕方を教えながら行うのである。子供には反省させつつ「整理の方法」を覚えさせ、実体験を積ませて今後は自分でできるようにさせなければならない。印象付けるためにテーブルを蹴って怒鳴ったのだが‥気分イイわけがない‥また気分が下がる。。

もう喜ばないプレゼント もう喜ばないサンタ

昨日渡したクリスマスプレゼント。長男は高校生なのでもはや何も欲しがらないし、何をプレゼントしても喜ばない。近年はほとんど「お小遣いか図書カード」がもっぱらのプレゼント。。それはそれでイイのだが、小学5年の次男が微妙な年齢。まだサンタを信じてるのか‥もう見切っているのか‥

事前にリサーチしても「欲しいモノ」を言わない。。でも「プレゼントなし」も可哀想なので、親としては気を遣って「喜びそうなモノ」を「サンタのプレゼント」として明け方に子供の机の上に置きに行く‥すると机の上に次男が書いたサンタ宛のメッセージ‥

「ボクの欲しいものはスケボーです。他のモノはいりません。」

おとうサンタの用意したプレゼントとは全く違う。。一夜明けサンタのプレゼントの事など一言も口にしない次男。それどころか、それとなく部屋の中を見てみてもプレゼントはどこにもない‥一体どういう扱いになっているのだろうか‥冷めきった子供のメッセージと合わせてのダブルパンチで大いに気分が下がる‥。

オレが何をしたんだろーか。オレの何が悪いのか。掃除だけしてればいーのか。。年末年始休暇の始まり‥ロクな出来事がない始まりだった。


2020年12月24日木曜日

内視鏡検査の憂鬱 毎年受診はつらいよ

健康診断E判定と異常なしの振れ幅に困惑

今日、胃の内視鏡検査を受けて来た。いわゆる「胃カメラ」を身体の中に入れて食道や胃の様子を調べる検査だ。ここ数年、9、10月に行って来たが、今年はコロナの影響で時期がずれて12月の今日となった。

4年前、定期検診のバリウム検査で初の「E判定(要塞検査)」。E判定といえば、定期検診の最高ランクである。。しかし、速攻で内視鏡検査を受けたところ、結果は「異常なし」。。「E判定」と「異常なし」のあまりの振れ幅に戸惑った。でも、内部を直接診て異常なしなら‥とその時は安心したのだが‥。

以来、3年連続「バリウム検査E判定」⇒「内視鏡検査異常なし」という奇妙な事が続いた。

昨年、医師に相談すると「バリウム検査では体質的に影が映っているような画像が撮影されてしまう人がいる」そうである。なので今年から医師のアドバイスに従い「バリウム検査を受けずに内視鏡検査だけ受診する」ことにした。

これで一応「バリウムと胃カメラ」の二重苦からは解放されたのだが‥。バリウムより数倍ストレスを感じる内視鏡検査を毎年受診するのは結構キツイ‥何とかならないだろうか‥。

経鼻内視鏡と経口内視鏡

今の内視鏡検査はカメラを鼻から入れる(経鼻内視鏡)。口から入れる方法(経口内視鏡)も選べるらしいが、一般的には経鼻内視鏡検査の方が圧倒的に苦痛が少ないそうだ。私は経口内視鏡検査を受けたことがないから比較できてないのだと思うが‥経鼻内視鏡検査も十分苦痛に感じる。鼻の穴から身体の奥に管を通すこと自体、生理的に受け付けないのだ。状況を想像しただけでも痛い。

まぁ‥そんなこと思うなら、一度経口内視鏡検査を受けてみる方法もある。どれほど苦痛か‥経鼻内視鏡検査の有難さ、優秀さが実感できるのであろう。

もちろん、経鼻内視鏡検査は実施にはほとんど痛みなど感じない。「気の持ち方」でどうにでもコントロールできる。「痛み」というよりも「刺激」と表現した方が近いかも知れない。ただ、私としては、「長い管を鼻から身体の奥に通している事実」に対する苦痛と時折「身体の内部が胃カメラと接触している(だろうと思われる)感触」が気持ち悪い。。不快なのだ。

胃カメラが映す映像はリアルタイムでモニターで見られる。先生は丁寧に説明してくれるのだが‥不快の絶頂を感じている私には‥何も耳に入ってこない。

検査は5分程で終わる。たった5分で食道から胃の隅々までの「内部」が直視できる。医学ってすごい!と思うのだが、終わった直後は刺激で鼻水と涙がボロボロ‥医学の偉大さに感慨を抱いている場合ではない。。

毎年の内視鏡検査は正直しんどい!

結局、「4回目」の内視鏡検査も細かい注意点はあるものの「概ね異常なし」だった。それ自体は大いに良いことなのだが、後に残る鼻の奥の余韻、食道などに感じる少々の痛み。普段通らないもの(胃カメラ)が身体の中を通るのだから、敏感に反応しているだけなんだろうけど‥、この「内部的な苦痛」は不快である。たぶん、今日は消えないだろう。

クリスマスイブ‥と正反対の身体的苦痛である。

今年から会社の定期検診で「バリウム検査除外」の形にした。内視鏡検査はあくまでも「任意受診」なので、「受けない」方法もあるのだが‥自分の年齢を考えると、何か(病気が)見つかった時に後悔したくない‥そう思うと毎年検査を受けざるを得ない‥でもやっぱり苦痛だ‥何とかならないものだろうか。。

いろいろ愚痴を書いたが、結局、検査に対してこれだけダラダラ言えるのは、まだ健康な証拠なのかも知れない‥と前向きな方向に考えることにした(笑)


2020年12月20日日曜日

建立から14年 はじめての墓参り 両親との付き合いはこれからも続く

月命日の墓参り 納骨したお墓としては初めて

四十九日の法要後、初めての月命日を迎えたので、今日は一人で墓参りに行った。月命日は母が18日、父が19日である。今まで墓参りは年1回と少なめだった。父の遺骨を納骨していなかったことや、休暇の日は母の病院に行く用が多かったことが理由である。


先日の四十九日の法要で、母と共に父も納骨した。今まで墓参りに行っても何となく「納骨してないし‥」という感じで「墓参り」と言うよりは「墓掃除」に行くという印象の方が強かった。

加えて、数年前に母方の先祖代々のお墓を改葬したため、我が家のお墓は当家の遺骨が入っておらず、姓の違う母方の遺骨が十数人分(ほとんど粉骨)入っているという奇妙な状態だった。無縁仏・永代供養墓が増加する昨今の世相を反映する状況がウチにもあった。

ふと感じた 母が亡くなってっも変わらない生活習慣

母が亡くなった後、不思議と線香をあげる習慣が続いている。母が亡くなった日、遺体を病院から自宅に移した後、お通夜・葬儀が終わった後、四十九日が終わった後‥もである。朝、起きたらすぐに線香をあげる。その日のすべての行動が始まる前に線香をあげる‥そんな生活になって2ヶ月になる。


今日は日曜日なので会社は休み、仕事疲れもあったので少々遅くに起きたが、午前中に仏壇の掃除をして午後に墓参りに出掛けた。お墓は自宅から車で30分程の場所にある。「墓地」と言うよりも「霊園」「公園」というような雰囲気に近い、敷地内には小さな子供用にホントに公園もある。眺めも良く、暖かい日に散歩など楽しめるような場所だ。

昼食の後、一人車に乗って霊園に向かった。15時‥そろそろ夕方に差し掛かる、快晴だが北風が冷たい。。私によくある休暇の行動だったのだが‥ふと思ったことがあった。


同じだ。。


そう、、変わっていない。また同じ生活が始まったのだ。


つい半年ほど前まで、休暇の日の午後は一人車を走らせて母が入院する病院に見舞いに行く事が多かった。母の居場所が病院であれ介護施設であれ状況は同じ。行き先が変わっただけで見舞いに行くタイミングは同じ。いつも休暇の日の午後だった(たまには子供たちを連れて行くこともあったが‥)。月に2、3回。。そんな生活を14年続けた。

そして母が亡くなり、そんな生活も終わった‥と思っていたのだが、今日、墓参りに行く途中、車の中で感じた。同じような生活がまた始まったのだ。「病院」から「お墓」へと行き先が変わっただけ‥。

死は「別れ」ではなく「付き合い方の変化」

以前の記事にも書いたかもしれない。とうとう父も母も亡くなった。悲しいことである。落胆して号泣‥というわけではないが、日々何となく力が入らない‥気が付くと何となく両親の事を考えている‥そんな事が多い昨今である。

しかし、一方で、私の中では母の死は「別れ」というよりも「付き合い方の変化」と捉える考え方もあった。おかしな発想かも知れないが、私自身の日々の生活の中では、「何となく同じ‥」と実感する部分もある。14年続けてきたことが改めて継続されているからだ。


今、私は可能な限り月命日には墓参りに行きたいと思っている。それは月に一回‥頻度は下がっても「休暇の午後に一人車で出掛ける習慣」は継続されることにつながる‥両親は亡くなったとはいえ、休暇の日の午後に両親のために行動することに変わりはない。私の記憶に両親が消えることもない。「最終形」なのかもしれないが、両親との付き合いはこれからも続く、墓参りの習慣も続く。そしてこの習慣には終わりはない‥私の健康が続く限り‥。

夕方に近い霊園。。ほとんど人はいない。今日はそんな感慨に耽りながら花を手向け、線香を焚き、墓前に手を合わせる‥建立から14年。父と母が入ったお墓に初めて墓参りをした日となった。


2020年12月13日日曜日

実践して納得 冬場はなかなか釣れない シーズンオフへ

中潮でコンディション上々 でも寒い! 

12月に入って初めての釣り。今日は潮回りも「中潮」で上々。日曜日だったので3時起き5時現場到着というパターンの釣りとなった。


冬場になり、早朝の場所取りはかなり楽になった。釣り場近くの公共駐車場が開場となる5時の段階でも周りはスカスカ。。難なく場所取りに成功!でも寒い!とても寒い!!釣り場に到着した時は真っ暗。灯台のすぐ脇で新月直前の月と金星が大接近していて幻想的だった。画像ではちょっと見難く残念だが‥。
空は新月直前。海は中潮‥なるほど!ウマくできている!‥などと酷寒の中で妙な納得をしながら仕掛けの準備を始めた。

新兵器導入!ヘッドライトでラクラク仕掛け準備

ちなみに、今日は「新兵器」を導入予定だった。「ヘッドライト」である。


日の出が遅くなり、朝、仕掛け準備の時間は普通に夜なので見えない。これまでキャンプ用のランタンを代用していたが、昨日購入した。ランプは「強・弱・点滅」の3段階。水平から下向き60度まで向きを変えられる可変式。これで100円(税込110円)なのだから100均ショップは偉大である!!

しかし「現場で開封すればいいや」とタカを括り、購入したままの状態で乾電池だけ用意して持って行ったことがアダとなってしまった。

開封してみると‥なんと乾電池の取付場所はネジ式(泣)‥

釣り場にドライバーなど用意していない‥残念ながら「新兵器導入」は見送りとなった(泣泣)。

酷寒の風景に魅了 釣果は微量(泣)

12月なので当然‥と言えば当然であるが、今日は寒かった。釣り場にも仕掛け準備にも慣れ、5時20分には釣り開始となったが、夜が明けて来たのは、それから1時間以上後だった。寒さが厳しかった分、余計に夜明けの風景がキレイに感じた。


肝心の釣りであるが、結論としては今日も「さっぱり」だった。アタリすらない。前回同様、「エサを海に放り込んでいるだけ」という感覚だった。


釣れたのはクサフグ1匹。厄介者のはずなのに、今日は歓迎したい気分になるほどだった。そのくらい釣れもせず、アタリもない。。今日は中潮なのにおかしい。。11月下旬に潮回りを顧みず小潮時の釣りで失敗した経験から、今日は中潮(明日から大潮)であることを確認して来たのに‥前回より悪い。。


こりゃおかしい。。と思ってちょっと調べてみると‥

どうも、冬場は釣れないらしい。

冬場は浅瀬から遠ざかる魚たち シーズンオフに

「釣れない」は語弊があるが、要は「難易度が上がる」ようである。冬場は水温が下がり、プランクトンたちが堤防近くや浅い場所から沖合や深い場所に移動してしまう‥それを追って魚たちも移動‥堤防近くに魚が少なくなるそうだ。


もちろん、「魚がまったくいなくなる」わけではないから、寒い時期でも釣れやすい魚種を狙ったり、昼間の温かい時間を狙うなど工夫すれば冬場でも楽しめるが‥確かに今日は「投げ釣り」している人ばかりだったような気がした。

潮回りだけでなく「シーズン」も考えに入れた方がいいかも知れない。今年の9月から始めた釣りだったが、一旦「シーズンオフ」かな‥。「会社の休暇」「潮回り」「暖かい日」この条件を揃えるのはちょっと難しい。「オフ」に入りながら、自分的には「サビキ釣り」に加えて「投げ釣り」なんかもちょっと調べてみたいと思った。

釣りに感謝 癒しをもらった3ヶ月 パンを食べて終了

初めてこの釣り場に来た時、満員で釣る場所がなくウロウロしていたところに、親切なオジサンに場所を譲ってもらった。。あれからもう3ヶ月‥釣れない事の方が多かったが、いつ行っても楽しく充実できた。また、別記事に書いたがこの3ヶ月は人生の大事が起きてしまった時でもあった。そんなところに癒しを与えてくれたのも釣りであった。感謝の限りである。

来年は3月頃からかな‥温かくなってきたら、バージョンアップしてまた始めたい。



最後に、やや毎度の感じになって来てしまったが、今日も釣りの後は海の風景で癒された。あまりの開放感から、早朝にコンビニで買った朝食の残りを釣り場で食べた。快晴、青く広い海、水平線、太陽の眩しさ、ポツリと立つ灯台‥何もかもが癒しに感じる中でのパンと缶コーヒーは格別だった。。

あーこれで大漁だったらなぁー。。。


2020年12月10日木曜日

本人の意志と家族の思い コロナ渦で露になる老人医療の闇

延命治療の是非 命の重さと病院のリソース

ネットでこんな記事を読んだ。

年老いた親が一時的に入院した後、退院できる状況になっても受け入れ側(基本的には子供)が拒否する‥。理由は「家が狭い」とか「お金がない」とか。しかも入院を継続したとしても「お金(入院費)は払わない」と言い出すのだとか。


記事自体はこういった状況で医療従事者が本来は不要な「受入れ先探し(介護施設など)」を強いられ、コロナ渦において余計な負担が増えている‥という話だった。

老人医療・終末医療・介護等々、いろいろな問題を考えさせられる記事だったが、私としては記事の中で「延命治療」に触れていたところが気になった。

~医療従事者にも、ベッド数などの病院リソースにも、家族の経済的な事情にも「限界」がある。だから「延命」が過度にならないよう、本人が元気なうちに延命治療を望むか否かのヒアリングはしっかりしておくべきだ。身体にたくさんのチューブを通し、自力では食事もできず寝たきりの状態‥そんな状況でも延命してほしいと思う人がいるだろうか‥~

こんな話だった。。

端的に言えば「寝たきりで意思の疎通も出来ない人に延命だけの治療が必要か?」という事なのだろう。本人が元気なうちにヒアリングすれば「延命治療などしなくていい」を言う人が多いのであろう。医療従事者の方々にしても負担が大きく減るのである。「延命治療なし」は今の時代にまことしやかに合理的な考え方‥のようにも思える。

私も母が亡くなる前までは、ある意味「延命治療は無意味」と考えるところもあった。しかし、実際に母の死に直面した時に考え方が変わってしまった。

母の死に直面して考え方が変わった

文字通り私の母は「寝たきり」の状態が長く続いた。「元気なうちに延命治療についてのヒアリング」なんてしていなかった。そんなこと(死を前提に)話すなど不謹慎である‥と思っていた部分もある‥。


母が亡くなる2ヶ月程前、私は医師から「胃ろう」の相談を受けた。当時の母の状況から考えて、「胃ろう」は「単なる延命」に過ぎないことは明らかだった。医師からも「(胃ろうの造設は)あまり勧められない‥」とも言われていた。

でも、私は最終的に「胃ろう」を行う事にした。母の「延命」を希望したのだ。

「元気なうちのヒアリング」はしていなかったし、寝たきりので意思の疎通も出来ない母に確認することもできない。父も十数年前に亡くなり、私には兄弟もいない。。相談相手は皆無ではないが、最終決定は自分がするしかない‥。こんな状況で私は最終的に「延命」を希望した。理由は‥

母の命を終わらせる‥という覚悟ができなかったからである。

「回復の見込みなし」「意識が戻る見込みもほとんどなし」「単なる延命」‥すべてわかっていた。病院スタッフの皆様の負担になるだけ‥も理解していた。でも私には「胃ろうはしません」と言う事ができなかった。。

「母のため」ではなく「自分のため」に「胃ろう実行」を選んだのだ。私の意志によって母の命を終わらせれば、後年計り知れない後悔を背負うことになるかも知れない‥。「回復の見込みがないのだから仕方ない」と割り切ることができなかった。

残された家族にとっての延命治療

もちろん、本人の命である。本人の意思を最優先すべきである。でもそこに家族の意志が入り込む余地はないのか‥私は疑問である。本人の意思であれ、周囲の状況がどうであれ、家族が重い十字架を背負い込むような終末であっては‥これも問題だと思うのだ。


結局、母は胃ろう造設手術を終えてから1ヶ月も経たないうちに亡くなってしまった。でも私は胃ろうを行ったことに後悔はしていない。逆に「合理性」に拘り、母の「命の終わり」を私が決めたのであったら、私はその重み故に大変な後悔をしたかも知れない。「後悔」とまでは行かなくても「永遠の心残り」となっただろう。

一方、もし「ヒアリング」を行っていたとしても、それは「本人が元気なうち」の意志であり、ある意味「強気」だった時の考え方である。年老いて身体が弱り「強い気持ち」が持てなくなった時にも「延命必要なし」と考えられるだろうか‥。身体も動かず、言葉も発せられず、薄い意識の中で「まだ生きたい」と思う老人もいるのではなかろうか‥。

結論など出ないのかも知れない。「終末期」となり意思疎通が難しい老人であっても「生きたい」という意思を持っているかも知れない‥そうでないかもしれない‥わからない。でも現実に医療現場の逼迫は治まらない‥。

矛盾や虚しさを感じざるを得なかったが、いろいろと考えさせられる記事であった。


2020年12月6日日曜日

はやぶさ2 こんなに話題になる理由

はやぶさ2の偉業 子供たちに伝えたいけど

小惑星探査機はやぶさ2が先日、地球に帰還したとニュースで報じられた。帰還、カプセル放出・回収、JAXA記者会見‥ここ2、3日はほとんどがネットのトップ扱い。関係者やその分野に興味のある人達は「歴史的快挙!!」と大盛り上がりだが、たぶん興味のない人たちにとっては「ただの時事ネタ」くらいにしか思わないのであろう。。


ちなみに私は前者。。。先代(はやぶさ1号)の頃からのファンである。はやぶさ2も小惑星リュウグウのタッチダウンの時はテレビ放映に釘付けだった。ただ、家族は完全に後者。。。。。家内はともかく、子供たちにはやぶさの偉業をとにかく伝えたい。何とかうまく伝えられないものかと思案中である。「興味のない人」に「すごさを伝える」のはホントに難しいことだからだ。

はやぶさは何をする探査機か?

一言で言えば「小惑星から砂を取って来る探査機」である。これだけ。

ただ、小惑星は3億㎞の彼方にある。火星と木星の間にある小惑星帯に「リュウグウ」と呼ばれる小惑星があり、そこまで探査機を飛ばして砂を取って来るのだ。近所の公園に30分くらいで行って来るのとは事情が違う。往復で6年を要する大計画だ。


火星と木星の間にある小惑星帯は太陽系が形成された当時のまま、成分が変化していない星が多く存在するそうで、その成分を調べることで「太陽系形成の詳細」がわかるかも知れない‥ひいては「生命誕生の理由」や「なぜ地球に水があるのか」などがわかるかも知れない‥とのこと。

何故はやぶさ2がこんなに話題になるのか

生命や水の起源が明らかになるかも知れない‥そんな事を聞くだけでもワクワクする感じである。はやぶさ2が持ち帰る「小惑星の砂や石」にはそんな宇宙のロマンが詰まっている。これは、はやぶさ2がニュースなどで大きく取り上げられる大きな理由のひとつである事には間違いない。

しかし、私が思うに理由は他にもある。。

先代(はやぶさ1号)のドラマを知っている人はどのくらいいるのだろうか?

今回のはやぶさ2は、ほぼ「パーフェクト運用」だったと言われている。失敗がなかったのだ。それに対して、はやぶさ1号は2003年に地球を出発。2005年に小惑星「イトカワ」に到着し2010年に地球に帰還した探査機である。やったことは今回のはやぶさ2と同じなのだが‥。


「出発・到着・帰還」の年数を見て気付く方もいるかも知れないが‥「行くのに2年、帰るのに5年」かかっている。

実は、はやぶさ1号は失敗の連続‥テレビ番組の特集が組まれるほど、小説ができるほど、映画化されるほど失敗と苦難の連続だった。「タッチダウンの失敗」から始まり、4台搭載していたエンジンの「全機稼働不能(故障および燃料切れによる)」、地球と通信ができなくなって宇宙迷子になってしまう「通信途絶」‥などなどすべてを乗越えて帰還する。。これが人々の感動を呼んだ。私は「テレビ番組の特集」と「映画」を見た口だが、はたぶさが地球に帰還し大気圏突入の映像を見た時は、恥ずかしながら涙がこぼれた。

はやぶさ2は、この先代の体験を十二分に活かして設計・運用されている。その結果、今回の「パーフェクト運用」を実現している。。こんなことも子供たちに伝えたいのだが‥うまく伝わらないだろう‥興味がなければ‥。

ちなみに地球帰還の際、次のような違いがある

◆はやぶさ1

探査機本体ごと大気圏突入

⇒本体消失、大気圏突入カプセルだけが地上(オーストラリアの砂漠)に落下

◆はやぶさ2

カプセルのみ大気圏に突入して地上(オーストラリアの砂漠)に落下

⇒本体は別運用に向けて継続飛行

カプセルの中身は‥入っているのか?

落下したカプセルは回収されて日本に届けられるのだが、今日の情報では「オーストラリアでカプセルの回収に成功」までが報告されている。数日後には「カプセルが日本に到着」が報じられることだろう。


先代は「タッチダウン失敗」だったが、かろうじて「塵とホコリ」がカプセル内に入り込んでおり、電子顕微鏡を使えば十分な成分分析ができたため「はやぶさ1号の飛行成功」とされて来た。これは誰もが認める所である。

しかし今回のはやぶさ2は完璧に近い形で「タッチダウン成功」となった。‥ということは、大気圏突入カプセルに、目で見えるはっきりとした砂や石が「ガッポリ」入っている筈である(‥ぜひそう願いたい!)。

「3億㎞彼方の小惑星の砂や石」が入っているのか否か‥本当に心からワクワクする50歳ジジイであった。


2020年12月3日木曜日

ヤングケアラーの存在を知る 介護で大切なのは相談すること

ヤングケアラーという言葉の軽さに疑問

先日、とあるニュース番組で「ヤングケアラー」と呼ばれる方々の特集をしていた。恥ずかしながら初めて聞く言葉だったが、若くして介護に携わる人‥というイメージは何となく伝わった。

ただ、その特集を見始めて数分で、私は「ヤングケアラー」という言葉を正しくイメージしていなかったことに気付き、さらに「ヤングケアラー」という呼び方の響きと、そう呼ばれている方々が直面している現実のギャップに疑問を感じた。

「ヤングケアラー」という呼び方は正しいのか?ふさわしいのか?

呼び方の響きは何だか軽い。少子高齢化の時代、若くして介護職に就き、お年寄りや身体の不自由な方々の手助けをして‥喜ばれて‥そんな方々のこと‥のように聞こえる。。

でも、現実は違うようだ。


やむを得ない状況で、両親や祖父祖母などの介護を担わなくてはならない境遇に直面している10代から20代の方々のことを「ヤングケアラー」と呼ぶのだ。彼らには社会人のみならず、大学生、高校生もいる。「老老介護」や「8050」が問題になっている昨今、それとは真逆の若い世代にも介護問題が起こっていることにかなりの驚きを感じた。

そして、ヤングケアラーたちの人生は決して豊かなものではなく、一生懸命親や家族の面倒を見た果てに貧困・孤立・就職難・生活苦‥要は介護をすることで自分の人生が犠牲となっているのだ。

親はあなたを望んでいない 自己犠牲は美談ではない

「お前だけが頼りだ」

そんな風に言われれば無下にすることもできないので長く世話をして来た‥。とある30代男性が高校時代に病気がちな親に言われた言葉だそうだ。親の介護にあたる時間が長くなるにつれ、友人との会話にもついて行けなくなり孤立がちに‥勉強もおぼつかなくなり金銭的にも困難なため進学も断念‥。20代半ばで介護から解放された頃には、社会からの孤立が常態化し就職も出来ず引きこもり‥

こんな状況が現実にある。


自分を犠牲にして親や家族の面倒を見る‥。美談である。素晴らしい話であるのだが‥問題は「犠牲の程度」である。自分の人生を犠牲にしてまでも「介護」することは美談なのか?正しいのか?私は疑問である。

このブログに何度か書いているが、私自身も母親の見守りや介護を14年してきた。私の場合は30代中盤から始まったことなので「ヤングケアラー」には相当しないが、「介護」を経験した者の一人として、また、ふたりの男の子の親として言うのであるが‥

どんなに身体が弱っていても、

どんなに困窮していても、

どんな不可避な事情があっても、

高校生の子供に、

「お前だけが頼りだ」

と発言する親はもはや親ではない。

万が一、私自身がそのような境遇に陥ってしまったのなら、私は子供にできる限りの環境とお金を残して命を落とす。子供の将来を犠牲にしてまで長生きしたいとは思わない。

ただ、自分が70や80歳になり、子供も成人してしっかり自立できているのであれば話は別だ。私が倒れた時の病院の手配くらいは子供の世話になりたい。

ヤングケアラーの方、なりかけの方へ

10代後半や20代前半くらいでやむを得ず親や家族の介護をしなければならない環境にある方々へ‥できれば読んでほしいです。

◆弱っている親を無下にできない

上では「‥命を落とす」などと少し極端な表現をしましたが、実の親や家族から「お前だけが頼りだ」と言われれば、それはなかなか無下にできないと思います。でも‥

「お前だけが頼りだ」=「お前に介護してほしい」

ではありません。「自宅での家族による完全介護」だけが介護の方法ではありません。一人で悩まず必ず誰かに相談してください。今、手元にスマホがあったら、検索エンジンで「地域包括支援センター(ちいきほうかつしえんせんたー) 〇〇〇」を検索してください。「〇〇〇」の部分には自分が住んでいる市町村名を入力します。


インターネットが使えなかったら、地元の市役所に電話してください。代表電話番号で構いません。「家族の介護のことで相談したい。どうしていいか分からない。」と言うだけでいいです。それだけ言えば、あとは担当の人がいろいろ相談に乗ってくれます。

◆あなたの犠牲を家族は喜ばない

「進学を諦めてまで」「就職を諦めてまで」「学校を辞めてまで」‥そこまでしての介護を介護される側の方は決して喜びません。あなたやあなたの人生を犠牲にすることは、あなた自身だけでなく被介護者をも不幸な気持ちにしてしまう‥ということは知っておいた方がいいです。それは、もし「あなたが介護される側になった時のこと」を考えれば容易に想像できるでしょう。

なので、親や家族から介護を求められたら、まずは「相談」しましょう。一人で抱え込むことは「介護される側の方」のためにも良くない事です。

介護には介護のプロがいる

少子高齢化社会と言われて久しい昨今。介護福祉士、ケアマネージャーといった「介護のプロ」が地域にたくさんいます。


精神論を優先して「自分の親は自分で」などという発想は、気持ちだけが先行して技術がついて行かない‥結果、被介護者を転倒などの危険にさらす可能性もある‥という事になってしまいます。

「介護は介護のプロに相談する」ことは「親不孝」ではありません。むしろ、介護のプロが介入することで被介護者の生活もあなたの人生も充実したものになるでしょう。どうか一人で悩まずにプロに相談しましょう。市役所の福祉課や地域包括支援センターはそのような事のためにあるのです。


父命日の墓参り 18年目に思うこと

思い起こすこと18回 父が倒れてから亡くなるまで 昨日が父の命日。毎年の事であるが「倒れた日」の3月14日から「亡くなった日」の19日までは私の中で当時の回想が優先される。特にそうしようと思っているわけではないのだが、頭の中に蘇ってしまうのだ。 今年も例外なく父が倒れたあの日、泣...