2020年10月28日水曜日

病院の会計窓口にて 母親の車椅子を押す男性

 忌引き後の初休暇はやることだらけ

葬儀が終わり一段落かと思いきやそうではない。やることは山ほどあるのだ。父や祖母の時に経験しているので、ある程度察していたがやはり結構キツイ。ほぼ休日返上となる。変な話、母の死を悲しんでるヒマもない。


やることをざっくり書くと「挨拶・連絡」「清算」「四十九日法要準備」「諸手続」である。「挨拶・連絡」はお世話になった病院の先生や介護施設、親戚など‥「清算」は入院費、葬祭費‥位牌の作成や菩提寺、霊園との日程調整は「四十九日法要準備」、仕上げは市役所、銀行、税金等々の「諸手続」‥これを「仕事の休暇日」を使ってやるのだ。年内にすべて終わらすのは困難だろう。

特に今回は「諸手続」のところに「家の名義変更」がある。土地、建物の所有者を親から私に変更するのだが「相続」が絡む、司法書士に頼んだ方が良さそうなので「司法書士探し」から始めなければならない‥。当面はこんな生活が続くのだろう。。

病院の最終清算 会計のお兄さんにお礼

最優先は「大きなお金の清算」であった。葬祭費と病院の入院費‥。前者は銀行振り込みできるのだが、後者は病院に直接行く必要があった。平日でないとなかなかできないので、今日の休暇の最優先事項とした。

病院までは自家用車で30分ほど。前回は他でもない母が亡くなった時、夜10時過ぎに「危険な状況、間に合わないかも知れない」と病院から電話を受けた時‥あれからもう10日経った。見慣れた道のりではあったがこれが最後。。そのつもりはなかったが、運転中、様々な思いが頭を過る‥。

病院に到着。表現が不適切かも知れないが、何だか懐かしい感覚。卒業した学校に訪れたような感じだった。

そして、最終清算。。少し時間はかかったが、程なく処理終了。いつも対応してくれる会計のお兄さんが今日も対応してくれた。4年間、特に話をしたことがあった訳ではないのだが、最後は一言お礼を伝え窓口を後にした。これで病院とも縁が切れる。。

会計窓口の後ろに座っていた親子

会計を終えて、ふと気付くと受付待合室の座席に40~50代の男性とその横に男性の母親と思われる初老の女性が座っていた。女性は車椅子だった。私が傍を通ると話し声が聞こえてしまった。


「邪魔になるかな‥」

女性が乗っている車椅子が通路で歩く人の邪魔になってしまうのではないか‥男性はそんなことを気遣っていた。

「40~50代の男性と車椅子の母親‥」

なんてことだ‥と思った。テレビドラマの最終回じゃあるまいし‥。私の病院最後の日に、このような親子を見かけるなんて‥。

その姿は、まさに数年前の私と母の姿だった。同じだった。

母の車椅子を押して何回、何十回と病院・介護施設に出入りした。大袈裟な話ではなく、たぶん百回を超えてもおかしくない。そのくらい日常化していた。待合室で私が長椅子の端に座り、母の車椅子をその横に止める‥通路の邪魔にならないかどうか‥結構気になるモノなのだ。。

「入院費の清算をした日」のことなどしばらくすれば忘れてしまいそうだったが‥。おかげでこの日のことは長く記憶に残るであろう。

車椅子使用14年 そういえば使わなくなっていた

父が亡くなり、母の見守りを始めて14年。当初、母は自宅内では自立歩行出来ていたが、外出時はもっぱら車椅子だった。これも「外出時は‥」から始まり「移動時の必需品」「もはや身体の一部」となるまで依存度が高くなった。そして、3半年ほど前からは「不要」に。。

自宅には不要になった折りたたみ車椅子が今も置いてある。当面は使用しないであろうが、家族に何が起こるか分からない‥当然自分にも‥なので処分するかどうかは考え中である。

話が逸れたが‥病院でお母さんの車椅子を押していた男性へ心の中でエールを送って病院を後にした。


二世帯住宅の終焉 両親お気に入りの家

二世帯住宅が終わるとは 

先週、母が死去したことで14年間の「二世帯住宅」が終わった。


今までそれほど真剣に考えたことはなかったのだが、「二世帯住宅が終わる」ほとんどのケースは「老夫婦の死去」ではないかと思った。14年前、父の死去によって私は実家に戻り、二世帯住宅が始まったのだが‥ウチも例外ではないのだろう。母が死去したことで、とうとう一世帯となったのである。

事実上は6年程前、母が脳梗塞で入院したことで二世帯での生活は終わっていた。幸い脳梗塞は軽度で半年後には退院できたが、その頃から別の病気も発症するようになり入退院を繰り返すようになった。

当初は入院しても目標は「退院、自宅で元の生活」だったが、いつしか「退院後は介護施設で暮らせるように」に変わり‥2年程前からは「退院」という目標自体が出て来なくなった。

9月の終わり、悩んだ挙句「胃ろう造設」を行ったのだが、その時の目標は私自身の中だけで「認識力の回復」であった。全くの素人考えだが、栄養がしっかり体内に入ることで身体が活性化されて認識力が回復し、再び私や子供たち(母から見た孫)を認識できるようになってほしい‥

「退院、自宅生活への復帰」がいつしか「認識の回復」にまで変化して行った。徐々に‥徐々に‥弱って行く母、6年間で決して「回復した」と実感できたことは一度もなかった。そして先週、母の死去によって二世帯は終わった。

両親お気に入りの家 活用されたのは僅か5年

私は物心ついた時から市営団地で暮らしていた。大学を卒業して就職し一人暮らしを始めるまで団地で育った。今の家は両親と共同で29歳の時に将来を見据えて二世帯住宅用に購入したものである。

親戚の建築士が設計した家で素人目に見ても非常にしっかりした感じの家で、父親はこの家をとても気に入っていた‥と母がよく言っていた。若かりし頃はかなり苦労した上でようやく手に入れたマイホーム‥父には喜びもあったのだろう。しかし、家を建てて6年後に父は亡くなった。


そして、父の死の2年後に二世帯生活がスタートするが、その後、約5年で母の入退院生活が始まる。‥そう‥この家が二世帯住宅として役割を果たしたのは僅か5年。。母が生活していた家の一階部分は、母が入退院を繰り返している間は「誰も使っていない」状態となった。

父と母の希望は家の保存ではなく活用

昨年、母の退院が現実的でなくなってきた頃、私はひとつの決断をした。それは「家の一階部分の使用」だった。それまで子供2人を含んだ私たち4人族は二階で暮らしていたのだが、「一階も使おう」と決めたのだ。

母が退院して「今までの生活に戻れるように」と「入院した当時のまま」で一階部分を保存して4年‥子供たちが成長し少々手狭になって来た二階‥本当にこのままが母のためなのか‥と疑問に思うようになった。

そして、昨年(令和元年)、母の外出着や家具、電気製品など大幅に処分、退院できたとしても「寝たきり」であることはほぼ間違いないため、母を介護するのに必要な衣類や最小限の家具、布団などを残し、母の部屋に私が入り、別の一部屋を長男に使わせた。母が退院出来たら、私がダイニングを適当に寝床にすればよい‥と考えていた。

母が帰ってくる場所を無くしてしまうのではないか‥そんな葛藤が「一階使用」を踏みとどまらせていたが、4年以上空家同然の一階‥父や母がお気に入りだった家‥自慢だった家は「保存」ではなく「活用」してこそ喜ぶ‥そう思って一階使用を実行した。

そして、実際「母が帰宅する日」を迎えた。母の居場所はしっかり確保していたので、慌てずに母を迎え入れることができた。ただその時、既に母は息をしていなかった事だけが残念だった。

二世帯住宅最後の日 4日間の母の部屋

母が亡くなったのが日曜日の23時、病院から帰宅したのは明けて月曜日の1時。それから木曜日に葬祭場へ入るまでの4日間は一階部分の母の部屋は本来の役割を果たした。横たわっている母の隣で、私は葬儀の準備と、忌引休暇を取りつつ片付いていない仕事をリモートで行っていた。

母は本当に眠っているようだった。ふとした瞬間に目を開いて「ご飯まだ?」と言い出してもおかしくないような感覚が何度もあった。こんなに長い間、同じ部屋で母と時間を過ごしたのは初めてかも知れない。いや、私が乳幼児のころはきっとそうだったのだろうが‥それ以来‥かな?

最後の最後にこの家が二世帯住宅として機能してくれて良かった。

お通夜当日の午後、母は葬祭場へ出発‥と同時に二世帯住宅の終焉を迎えた。「肉体は滅んでも魂は生き続ける‥」その辺の考え方もあるのだろうが、そこに固執するのは、あまり好きではない。私や子供たちの記憶に残り続ける限り、見守っていてもらえる‥そう考えられれば良いのだと思う。二世帯住宅はこれで終わりである。

家内や子供たちと相談であるが、落ち着いたら「一階」と「二階」を総入れ替えしようと考えている。仏壇や位牌、両親・ご先祖の品々は二階の居間に移動し、そこを私の部屋と兼用にしようと思う。

見晴らしの良い暖かい部屋で、いつまでもゆっくりしてほしい。


2020年10月21日水曜日

母の永眠 お疲れさまとありがとう 長かった6年半の旅

容態急変 コロナ渦での最後の面会

 2020年10月18日23時5分、母が亡くなりました。76歳でした。


17日夕方から容態が急変。会社にいた私は早退して自宅に戻り、すぐに長男を連れて病院へ急行。コロナ渦で面会禁止の中、特別に2人での面会許可をいただきました。意識はなく、これまでになかった荒い呼吸。看護師さんの説明によると酸素吸入器は100%での稼働状態。これ以上酸素が必要な状態になれば、それはそのまま死を意味するとのことでした。

何度も大声で呼びかけました。「孫(長男)が来た」と呼びかければあるいは‥(反応があるかも知れない)との期待もむなしく母は荒い呼吸をしたまま‥長い面会はできず(コロナ渦のため)、10分程で面会終了しました。

次の日も特別に許可をいただき、今度は家内と長男を連れて病院へ。同じように孫(次男)が来たことを大声で伝えるも反応はなく、昨日100前後を示していた血圧計が80前後となっていたことに不安を覚えつつ、昨日と同じく10分程の面会で病院を後にしました。

自宅に戻ってからは、立て込んでいる仕事を在宅リモートで行いました。ただでさえ込み入っていた業務の中、昨日の早退の影響もあり、仕事に没頭せざるを得ない状況。とりあえずの区切りがついたのが22時半頃でした。

そして、仕事を終えたのを見計らったかのように病院から電話。悪い予感しかしない電話の内容は「母が非常に危険、間に合わないかも知れない」とのことでした。直ちに自宅から病院へ急行。病室に入ると、そこには既に息を引き取った母の姿がありました。

間に合わなかった。

でも涙は出ませんでした。最後に孫たちに面会させることもできた。何より父が亡くなってっから10年以上、母を見守り、介護をしてきた事実が私を支えていました。後悔はありませんでした。

自宅、病院、老健、特養‥長かった6年半の旅

忘れもしない、母の体調が本格的に悪くなったのは2014年4月に2回目の脳梗塞を発症して入院してからでした。そこからは転院、老健へ移動、体調が落ち着き、老健を退所したかと思いきや1カ月も経たないうちに病院の入退院の繰返し、また老健、特養へと移動‥特養で落ち着いたかと思えば1年も経たないうちにまた体調が悪化して再入院‥。

膠原病、脳梗塞、全身性エリテマトーデス、骨粗しょう症、認知症、そして2016年の年末には白血病の診断まで受けました。

白血病の診断を受けると、その頃入居していた特養が入居の継続を渋るようになりました。白血病と言っても急性のモノではなく、体調が落ち着けば退院してほしいというのが病院の意向。「退院せよ」という病院と「受入れできない」という特養とが真っ向対立。結局「自宅介護」という形に‥。

介護などほとんど素人の私、会社を辞めるわけにもいかず、ケアマネジャーさんと綿密な計画を立て、通いのヘルパーさんなどの力も借りて、早朝、夜間のオムツ交換は私がやり、普段の食事は高齢者用の宅配食を依頼し‥なんとか在宅介護の形を整えましたが、そこまでしても家内が納得せず‥。その頃を境に家内とは家庭内離婚状態に‥。

しかし、そもそも多くの病気を患っている母が、健常者と共に自宅で生活することには無理があり、2ヶ月程で母は体調を崩し救急車で運ばれて再々入院‥その頃、断絶していた特養と和解し、退院後は特養へ移動するも、退院しては体調を崩しの繰返し、再再々入院、再再再々入院‥病院と特養の行き来を何度繰返したか‥

奮闘虚しく母の体調は悪くなる一方

最後に入院したのは2017年の年末でした。その頃は意識ははっきりしているものの、認知症と骨粗しょう症が進行し、車椅子での生活はNG、円滑なコミュニケーションを交わすことも難しい状況になっていました。

時と共に徐々に目が悪くなり、起き上がる事が難しくなり、会話が難しくなり、呼びかけても反応できなくなり‥2020年2月‥いわゆる「コロナ渦」の直前には、大声で呼びかけても目を開くか否か‥という状況でした。

そして、その後はコロナ渦の影響で病院全体が面会禁止に。

最後に始まった入院生活から2年半‥2年10ヶ月‥。この6年半で最も長く「同じ場所に滞在」することができた‥。長かった「母の旅」は、ここでようやく落ち着いたのでした。

わかるのかな‥ここは自分の家

夜中に亡くなったのですが、朝まで病院にいることはできません。すぐに葬儀社に連絡。日付が変わって1時頃に帰宅しました。文字通り無言の帰宅。3年前の在宅介護で帰宅した時、あれほど戻りたいと言っていた「自分の家」に戻ったというのに、認知症が進み、母は自宅に戻ったっという実感がなかったようでした‥これは、私にとって大きな衝撃でした。

今はどうなのだろう‥かつての「自分の部屋」で横たわっている母。自分の家に戻って来ていると実感できているのだろうか‥。

病院、老健、特養、自宅‥行ったり来たり出たり入ったり‥いつしか自宅を忘れ‥どこがどこだかわからなくなってしまったのだろう‥6年半の長さは計り知れず、母から自宅の記憶すら失わせてしまった‥そんな旅も終わり。もう終わりなんです。

いろんな事を学んだ‥ホントにいろんなことを

母にどんな言葉を掛けたいか‥葬儀社のスタッフにこんなことを聞かれました。私には「長い間、お疲れ様でした」よりも先に思い浮かんだ言葉がありました。それは‥

いろいろな事を学ばせてくれてありがとう。

でした。

もちろん「利用者」の立場からですが、病院のスタッフ(医師も含む)や介護施設で働く人々‥もちろん大半は「困っている高齢者や病気の方々を助けたい」という信念に基づいて仕事をしているでしょう‥しかし、そんな人ばかりではないということ‥時には疑問を抱くようなスタッフもいる‥ということ。

病院や介護施設にも「限界」はあり、限界を超えれば利用者は「問題児」となり、疎まれる存在になるということ‥。そんな現場に晒されたことが何度もありました。私と結婚した家内でさえも‥そんな人間模様、医療や介護に関する社会的制度に詳しくなっただけでなく、そこに従事している「聖職者」は「神様」ではなく「人間」であるということ‥この6年半、母を通して本当に多くの事を学ばせてもらいました。

母の身を持っての私に対する教育‥だったのかも知れません。

孫たちへのメッセージ 大切な命の教育

「母の教育」は私の子供たち(母の孫)にも影響しました。コロナ前は何度も病院や介護施設に何度も面会に連れて行ったからです。時には外出許可をもらって食事を共にしたリしました。自力では階段の上り下りができない母、補助具の付いた箸でないと食べられない母‥そして何より、認知症でコミュニケーションが難しい状況になった母に直接会ったことは、彼らにとって衝撃でもあり、言葉では表現し難い「命の重み」を実感できたに違いありません。

そして死の直前、変わり果てた姿の母、内出血のアザだらけになっている腕を見た子供たちに、今の私では不可能な教育を子供たちに与えてくれたのだと確信しています。

本当にありがとう。本当にお疲れ様。

父が亡くなって14年、母が「デイサービスに行きたい」と言い「要支援1」から始まった要介護度も最後は「要介護5」。本格的に体調を崩してから6年半‥もうわからなくなってしまったかも知れないけれど、今は「自分の家」にいます「自分の部屋」にいます。

お寺や葬儀屋さんとの打ち合わせも終わりました。エンバーミングも済みました。

明日は「お通夜」です。あとは葬儀と納骨‥かな。最後までやります。全部やります。安心しててください。


2020年10月16日金曜日

大潮・満潮 条件良好の釣りは毒・毒・毒三昧

潮を知る 潮の満ち干が釣果に影響 

5回目の海釣り。最近、やや仕事が忙しめなのだが、今日は少し無理に出掛けた。「平日に行きたい」という理由もあったのだが、一番の理由は「潮」だった。「釣果には潮の満ち干が大きく影響する」という事を知ったためちょっと調べてみたところ‥。


いつもの釣り場付近は今日の朝5時頃が満潮で以降徐々に潮位が下がって行く時間帯‥潮的には絶好の条件のようなのだ!なので、仕事では「業務案件混み混み」だったが、あえて釣りを強行した。

ちなみに、地球や月の引力の影響で海の水位は半日から1日周期で上下しており、水位が一番高い時間帯を「満潮」、一番低い時間帯を「干潮」という。この辺までは一応知っていたが、もう一歩掘り下げると、満潮・干潮の「水位の差」が大きい場合と小さい場合があるそうで、それぞれ「大潮」「小潮」と言う。

たくさんの魚が釣れるのは「大潮」の時らしい。

さらに掘り下げると、釣れる理由は様々‥また、大潮の時でも「上げ三分」「下げ七分」といったタイミングがあるなど‥掘り下げるほど広がって行く感じなので‥

まぁ~水がたくさんあれば魚もたくさんいるだろー。

くらいに考えることにした(笑)。

気象庁から「潮見表」なんてのも公表されていて、ネットで見られる。今日はまさにいつもの釣り場、いつもの時間帯が「大潮」「下り7分」にあたっている。仕事で多少疲れていても見逃す理由はなかった。

満潮の迫力 ちょっと怖さも感じるほど

早朝5時、「満潮」の時間帯に釣り場に着いたが、なるほど水位が高く、自分の足元近くまで水が来ているように感じた。結構な迫力で少し怖さも感じた。


画像はそれから2時間後くらいの様子。水位はかなり下がっている。5時頃は防波堤の「足の部分」が見えないくらい水位が上がっていた。大潮・満潮時にちょうど足が隠れる(防波堤の高さ一杯)くらい‥ウマク造られているものだな‥と感心してしまった。

満を持しての釣りはフグ、フグ‥そしてまた‥フグ!

「大潮・満潮」は実感できた。平日だったので「場所取り」も余裕。。満を持しての釣りスタートとなった。そして釣れに釣れたのだ‥クサフグが。。


ナンだこりゃ‥水槽か‥。

これは釣れたクサフグである。ここには16匹映っているが、途中からストックし始めたモノである。最初は釣れてはリリースしていたので、実際には20匹以上(たぶん30匹近く)クサフグばかりが釣れた。

「釣れた数」でいえばこれまでの最高記録であるが‥(泣)。

とにかく、クサフグは食べることが難しい。釣れてもあまり嬉しくない。ネットで調べても外道扱い‥散々な言われようで気の毒にも感じるが仕方ない。結局、画像のフグたちもすべてリリースした。

ところで、1匹だけこんな魚が釣れた。


結論としては、この魚も写真を撮ってリリースしたのだが、「クサフグ」とは明らかに違う。でも顎の下をプクッと膨らませたり「フグかな?」と思わせる動きもした。ただ、5㎝程度の小魚で食べられそうもなかったのでリリースしたのだが‥

後で「Yahoo!知恵袋」で調べてビックリ!この魚は「キタマクラ」と言ってフグの仲間、フグと同じ「テトロドトキシン」と言う猛毒を持つ。内蔵だけでなく皮膚にも毒があるため「素手で持つのも危険」だそうだ。

私は「魚つかみ用のトング」を使っていたので問題なかったが、間近な危険であったことには違いない。少し背筋に冷たいモノが走った。安全だと思われる防波堤釣りであっても100%安全ではない‥ということを改めて認識した。

せっかく釣れた「クサフグ以外の魚」も結局フグの仲間で猛毒の持ち主。。「大潮・満潮下げ七分」の好条件で実際に釣れたのだが‥毒・毒・毒のある魚ばかりで「お持ち帰りは0匹」という釣果となった(泣)

ボウズだが得るものも多く‥


結局今日は「ボウズ」という結果だったが「潮の観点」や「フグ以外にも毒のある魚がいる」など得たモノも多かった。

今後は「潮を見て釣りに行く日を検討する」「知らない魚は素手でつかまない(もちろん、安易に締めて持ち帰らない)」などなど実行するとともに「クサフグを避けて釣る方法」を調べてみたい。


2020年10月11日日曜日

50歳で辿り着いた自由はこんな感じ 案外悪くないモンだ

コロナ渦で大きく変わった生活 

在宅勤務が導入されて半年。感染には厳重注意しなければならないリスクを抱えながらも、ドアツードアで1日往復4時間の通勤時間をカットできる日ができたことは、私の生活を大きく変えた。


メディアでは「家族と過ごす時間が増えた」「家族とより仲良くなった」とコメントしているおとうさんも多いようだが、テレビで放送されている映像やネットに紹介されている画像などを見る限り、それらは「小学校低学年以下のお子さんがいる家庭」のように思える。

ウチの場合、長男が高校1年生、次男が小学5年生。どちらかといえば(長男は明らかに‥)「おとうさんとは一緒にいたくない」という空気をはっきり感じる。「おとうさんとお散歩」「おとうさんとお出掛け」を喜ぶ年齢は過ぎてしまった。

もちろん、高校生、大学生、社会人になっても親御さんと行動を共にする‥という家庭も多いだろうし、それは素晴らしいことであると思うので、ここは何が良い悪いの話ではない。あくまでも「ウチの場合は‥」という話で、なおかつ私自身、そういえば小学校5、6年頃からは友達と遊ぶことが中心で、親と一緒に行動することはなかったかも知れない。

ただ、昨今のコロナ渦で、私の子供達は「親離れし始めているのに、友達同士で遊びに行ったりすることが難しい」という状況が少し気の毒だと思う。実際、今年の夏休みは高校1年の長男に「友達と遊ぶのは今年だけは控えろ」と話してしまった。もちろん、長男も納得の上だったが、私自身は高校1年の夏休みには友達と海やプールに行ったし、部活の合宿で学校の体育館に泊まったりしたものだった。

話を元に戻すが、家内とは倦怠期真っ只中‥。ほとんど直接会話はしていない。総じて「家に居ずらい状況」「おとうさんは普段は会社に行って家にお金さえ入れてくれればイイ」‥後者はやや大袈裟だが、基本的に家の空気はそんな感じだ。それでも1日往復4時間の通勤時間削減は本当に大きいのだ。

平日は会社残業、休日は家族サービスの日々だったが‥

かつては「平日は会社、休日は家族サービス」の日々だった。ちなみに「家族サービス」はいわゆる「家族でお出掛け」だけでなく、病院の入退院、介護施設への出入りを余儀なくされていた母の用も大きなウエイトを占めていた。


このブログでも書いたが、母は「入退院」がなくなり、ここ2年程は継続的に「入院」している。体調については残念だが、母にとっても私にとっても「病院の入退院」「介護施設の入退所」「病院と介護施設の往復」を繰返していた頃に比べれば、体力的にも精神的にも落着く。ちなみに現在はコロナ渦で病院は面会禁止。見舞いにも行けない。

親離れが始まっている子供達に関しても寂しい面もあるが、私としては「親離れは成長の過程」と考えているので、必要以上にコミュニケーションを取ろうとはしていない。いつまでも「一緒にお出掛け」「一緒にごはん」「一緒にお風呂」である必要はない。成長したら、それ相応の付き合い方をして行けばいいのだから‥。

すると最近、こんなことに気が付いた。

‥時間が空く

あれ‥時間がある。。

‥ヒマだ。。オレ‥ヒマなんだ。。。

意外なタイミングで生まれた「自由」

かつて「平日の仕事」は残業の連続、会社に寝泊まり‥なんてこともザラだった。ストレスで夜眠れずなんてこともあった。そして休日には「家族サービス」。「自分の時間がない」は言い過ぎかも知れないが、「自分の時間は大きく制限されている」状況だった。でも、特にそんなことに疑問も感じず、かわいい子供たちのためにアクセクすることがストレス解消にもなり、楽しくもあった。

仕事は相変わらず忙しい。コロナ渦で一時混乱したが、コロナに対応した業務改善や商品開発が本格的に始まり、むしろコロナ前より仕事が増えて来た感じだ‥。でも仕事には慣れる。ストレスにも慣れる。そして、事情も成り行きも全く別だが、母親にも子供にも家内にも手が掛からなくなって来た。さらに在宅勤務増による通勤時間の大幅減‥。

ここに大きな「空き時間」が生まれた。


少し大袈裟に言えば「自由」が生まれた。私に大きな「自由時間」が発生したのだ。実際は単に「家族に疎ましがられるおとうさん」なのかも知れなが‥それでいい、それで十分である。家庭にこれまで通りの収入を入れておけば、あとは何をしても特に気にされない。自由な時間だ。


ああ‥自由ってあるんだ。。


最近の率直な気持ちである。10代の頃、分りもせず「自由」に憧れたり、30から40代にかけては仕事上での自由‥いわゆる「フリー」に憧れたりした。でもそれらはことごとく「憧れのまま」でいつしか消え去って行った。

50歳になった今年、あとは重苦しい仕事のストレスを感じながら、家にいても家族にはほぼシカトされて居場所もなく虚しく歳を重ねていくのか‥と思っていたが‥案外そうでもなかったのだ。

「自由の形」子供たちに伝えておきたい

自由‥そう自由だ。あんなに憧れて夢見た自由‥とは少し形は異なるかも知れない。いや、まったく違う。ささやかで地味で別に誰も羨むようなモノでもないかも知れない。家族からしてみれば「勝手にすれば」程度のモノだろう。

そんな感じでも私には十分なのだ。十分な自由がここにある。それでいい。

「異なる形の自由」。確かに若かりし頃に思い描いていた「自由」とは違う。でも今‥確かに「自由」を感じられる。それは、10代の頃から受験、学業、仕事、恋愛、結婚、育児、介護‥ありきたりなのかも知れないが「やるべきことをやってきた安堵感」の上に成り立っている気持ちが土台になっている気もする。


「何もかも捨て去って夢に邁進する」という道をいつの日か忘れ、現実に、大衆に、ありふれた生活にどっぷり浸かって生きて来た結果‥案外悪くない‥かも‥と思える自分がいた。思えば50歳の今になるまで否定し続けた生き方なのかも知れない。でも、こんな感じになれるなどとは夢にも思わなかった。

この感じ、どうやれば子供たちに伝えられるであろうか。できれば伝えておきたい。それは、彼らが人生で追い込まれるような局面に立たされた時、最後の砦として逃げ込める手段に「なるかもしれない」からだ。

もしかしたら、子供がやがて成長して人生に悩んだ時「夢を追え」「自由をつかめ」とアドバイスするのは簡単なのかも知れない。

「しっかりと学業を重ね、しっかりと仕事をして普通に生きて行っても自由に辿り着くことはできる」

難しいかも知れないが、今は、私の子供にはこんな風に伝えたいとも思うようになってきている。


2020年10月7日水曜日

初めての平日釣り 場所取りから解放されたのんびり感

人が少ない! 平日の釣り場事情

今日は海釣り4回目。ようやく平日の海釣りを実行できた。週休2日制ではあるが、ここ数週間は平日に休暇を取る事ができなかった。案の定、過去3回は「場所取り」が一大業務となってしまっていた。

「場所を確保できると少しホッとする‥」

それ(場所取り)も含めて釣りだ!‥と言われれば仕方ないが、本来の釣りとは違うところで余計なパワーを消費している感じが否めなかった。

今日は前回より1時間遅れて釣り場に到着。でも選んで場所を取る事ができた。明らかに人が少ない‥!平日は「場所取り」の煩わしさから解放される事が分かった。周囲は既に薄明るくなっていた。台風の影響もあったのだろうか、今日は終始強風だった。


忘れられない 入食いの感覚

前回、1時間前後で20~30㎝クラスのアジを14匹釣った。「入食い」だった。あの感覚は今でも残っている。身体が「釣れる」と思い込んでいて、仕掛けを海に入れた途端に「ヒット体勢」になる。いつでも「グン!」の引きに対応できるように‥!

でも現実はそんなに甘くなかった。(ヒットが)今日はない、今日は来ない‥全然来ない‥でサッサと1時間経過。。ようやく釣れたのが5cmほどの「タイ(←たぶん)」だった。


あまりにも小さかったので、写真だけ撮ってリリース。そこからはまた1時間程沈黙。。同じ堤防でも、今日は陸地に近い側にいた方々は、結構ポンポン20~30㎝クラスを釣っていた。幼稚園生くらいの男の子(今日休みなの?)も釣れていた。。。。

逆に海の奥側にいた私たちは苦戦だった。「釣れない」ということではないが「大して釣れない」のだ。

前回まで、大自然の中で人間が10~20m動いたところで釣果など大して変わらない。と少し大ざっぱに考えてたのだが、そうでもないようだ。結局、今日の釣果は3匹。上のタイに加えて20cm程のフグと、オキタナゴだった。後者はなかなか名前が分からず、帰宅後にYahoo!知恵袋で教えてもらった。


失敗!反省!フグを食べるのは難しい‥

2匹目に釣れたフグだったが、前回と同様の20㎝クラスの魚がようやく釣れた喜びも手伝い、「フグって毒があるって言うけど気を付ければ食べれるらしいし、ましてや火を通せば問題ないだろう(←間違いです!)」などと、これまた大ざっぱにザックリ考えてしまい、躊躇いもせずにクーラーボックスに入れて氷締め‥。

隣でおとうさんと釣りをしていた少年(5歳くらいかな‥)が「フグ持って帰るの?食べるの?」と心配してくれていたのに、私ときたら「ウン‥焼こうかな‥」などとテキトーに答えてしまう始末。。

帰宅してからネットで調べてみると、「フグの毒は焼いたり揚げたりしても残る‥」との情報多数‥。もちろん、プロの調理師さんや資格を持った方が処理すれば安全においしく食べられる。でも、私にそんなことできるはずがない‥。

目の前には締めてしまって動かないフグ‥。勉強不足の人間が勝手に釣上げ、命を無駄に奪ってしまった。本当に可哀そうなことを、本当に申し訳ないことをしてしまったと悔みながら、謹んで庭に埋めた。

オキタナゴは味噌汁でいただく



結局、今日は10時30分まで5時間釣りをやった。今までで最長の時間だったが、釣果は3匹。後書きとなってしまったが、タイとフグは「釣れた」と言うよりは「針に引っかかった」感じだった。両方とも身体の一部に針が掛かっていたのだ。

実は、まともに「釣れた」のはオキタナゴだけだった。針がきちんと口に掛っていた‥。スリムな体型で身は少なそうだが、素焼きして昆布だしで味噌汁を作るとウマイそうなので(ネットの情報)、明日挑戦してみたいと思う。早速「昆布だし」をスーパーで買って来たし。。

釣り場の現実 釣り人のマナー

4回目の釣りで少し慣れて来たこともあるだろう。平日で人が少なく、周囲を見る余裕もあったのだろう。堤防の下に結構な漂着物が打ち寄せられているところがあった。


ちょっと写真だと見難いが、木の葉や木の枝は仕方ないとして、ペットボトル、発泡スチロール、5㎝程の小魚の死骸(5~6匹まとめて)などなどが浮いていた。せっかく広大な海の景色を見ても、足元がこの有様だと相当萎える。

あと、釣り場には使い古しの仕掛けがポイ捨てしてあったりする。その近くをハトがチョコチョコ歩いていたりするので、もし絡まったりしたら‥と思うと怖い‥

あーこれが釣り場の現実。。もちろん、すべてが釣り人の仕業ではないだろう。私が見た限りでも、ほとんどの釣り人がマナー良く釣りを楽しんでいる。初心者ではあるが、私も「マナーを守る」は継続して行きたい。

当然、堤防は自治体が管理している。「堤防が荒れている」なんて事になれば「立入禁止」なんて簡単にできるだろう。「マナー」は自分(釣りを楽しむ人々)のためにもあるモノであろう‥というのは私の自論だが‥。


2020年10月2日金曜日

コロナ渦での運動会の強行に疑問

 縮小型の運動会 秋のスポーツ大会!

今日は小学5年の次男が通う小学校の運動会があった。「運動会」と言っても、コロナ渦であることを考慮して「午前中だけ」の縮小版。イベント名も「運動会」ではなく「〇〇スポーツ大会(仮名)」と銘打っての開催であった。


プログラムは「徒競走」と「表現」だけ、後者は基本的に一人での振り付けや縄跳などをする「簡易版」。組体操や騎馬戦、タマ転がし、選抜リレー等々、接触を伴うであろう種目はすべてカットした上での開催だった。

以降は、あくまでも現場で尽力された先生方や父母会役員の皆様に敬意を表した上での話なのでご容赦願いたい。

スポーツ大会を見て、率直に感じたことは「そこまで無理して開催する必要があったのか?」という疑問だった。

自分の子供の縄跳を見て

当初はそんな気持ちは抱いていなかった。毎年春に行われていた運動会が延期、今回(秋)のスポーツ大会も開催が決まったのは夏休み明けだった。感染防止対策をして何とか開催してくれる学校に感謝しつつ自分でも楽しみだった。

ところが、小学5年生の表現。縄跳を基本とした演技のようだったが、子供の様子を見ている(ビデオ撮影もしていた)と、肝心の縄跳が全然跳べていない。私たちの時代で言う「あや飛び」を改良したような、難易度の高そうな跳び方だったが‥「難易度」を問うようなレベルではなかった。そもそも「練習したのか?」と言いたくなるような有様だった。

こりゃあ(スポーツ大会が)終わったら説教だ‥と思ったのだが‥ふと他の子を見ると‥多くの子がウチの子と同じような感じだった。明らかに練習不足‥「グタグタ」という言葉がいかにもマッチする光景だった。

結局、各個人が「自分がウマク跳ぶ」ことだけに集中してしまい「周囲と合わせる」という大切なコンセプトが皆無になってしまっていた。5年生だけでなく、他の学年も‥。

もちろん、我が子を必要以上に擁護するつもりもないのだが、本人(次男)の怠慢(自主練不足)もあるのだろうが‥今回に限っては、スポーツ大会強行開催そのものに対する疑問も感じざるを得なかった。。

粗探しするつもりはないけれど

そんなつもりはないのだけれど、我が子の小学校の運動会‥そんな目で見たくはないのだけれど‥一旦見方が変わってしまうとそんな目で見てしまう‥

【表現】(全学年が縄跳を使った振り付けだった)

・個人レベルでの縄跳の技が大幅に未完成

・周囲と合わせるという意識が個人にない

【徒競走】

・フライングを連発する

・自分のスタート位置を分かっていない

・恥ずかしそうに走っている

簡単に言ってしまえば、明らかに「練習不足」「準備不足」である。高学年の徒競走では「恥ずかしそうに」「ニヤニヤしながら」走っている子が散見した。

これも「真剣さに欠ける」と叱咤するのもひとつだが、そのような「気恥ずかしさ」は練習を繰り返し、競技に慣れることでほとんどが解消される。そしてその先に「競技への集中」と「目標」が生まれるものではなかろうか‥。

これも今回に限っては、子供たちの「姿勢」よりも「スポーツ大会を強行した理由」を主催者(校長先生かな?)に聞いてみたいものである。

校長先生の言葉に疑問 あなたは何に感動したの?

閉会式。児童代表の「終わりの言葉」の後に「校長先生のお言葉」があった。

「今日はお疲れ様!今日は感動しました!!短い練習期間の中…☆×!(^_-)-〇▼…本当に感動しました!!…」

だそうだ。。。この上なく取って付けた言葉に聞こえた。この状況下で、この内容で‥説教しろとまでは言わないが‥あえて形式的にでも「労う」のであったとしても「ここまでできれば上出来」くらいの表現に留めるべきであろう。

どう考えても「感動」や「興奮」を口にするような空気ではなかった。

そう、そして、私の中に「形式」という言葉が頭を過った。この「スポーツ大会は単なる形式」だったのだろうか‥事情は知る由もないが、先生方にも「親からの要望」や「教育委員会からの圧力」などといった、いわゆる「大人の事情」もあるのだろう。私は教育者ではないが、ひとりの社会人としてそれは理解できるような気がする。しかしながら、子供たちへの教育効果という点から考えると今度はひとりの親としては疑問を感じざるを得ない。

子供から聞いた練習事情

私自身、事後にこんなことを聞くのは父親として恥ずかしい事かも知れないが、子供が学校から帰り、昼食を食べながら「スポーツ大会の練習事情」を聞いてみた。

「秋のスポーツ大会開催」が決まったのが夏休み明けの大会1カ月前、実際に練習が始まったのは2週間前程からだったという。縄跳の全体練習は2~3回。徒競走の練習はなかったそうだ。。

‥まぁ‥因果応報というヤツであろう。その練習量なら今日の内容もやむなし‥と言ったところだ。

‥ということで、私から次男への説教は見送り、「練習期間が短い中でこれだけできれば上出来」という旨で「労い」の言葉をかけた。


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