2021年1月31日日曜日

敵を作る生き方 意外にもストレスは減った気がする

職場で変な神経を使わなくなった

最近、少し心境が変わり、職場内で変な神経をあまり使わないようになった。「変な神経」とは色々だが、一番は「相手の機嫌を伺うように話し掛けることをやめた」のだ。

もちろん、上司や先輩にはしかるべき態度がある。すれ違った時に会釈したり、近くで作業したりしている時に「気を遣って話し掛ける」ことはする。多少のストレスはあるが、私の場合はリスペクトの対象となる方々にこのような気遣いをすることにそれ程ストレスは感じない。

しかし、職場には様々な人物がいる。ウチの職場ばかりが特別ではないだろうが「素直さのない後輩・アルバイト職員」や「リスペクトできない上司・先輩」は、職場内において最もストレスを感じる対象であると私は思っている。ウチの職場は「エスカレータ式」ではなく「実績」で昇進する人事の仕組みになっているので、「変な上司」は少ない代わりに「昇進できずに長年同じ仕事をしているメンドウな先輩」が多い。こーゆー連中が「会社30年」の伝説を作り上げるのだろう‥とは容易に想像できる‥そんな連中だ。

職場ストレスの根源 モンスター社員

今まで私は、そのような「メンドウな先輩」にも、私は「イイ顔」をしてきた。廊下ですれ違えば挨拶し、対面で作業をしていれば、気を遣って世間話のひとつも持ち掛け、敬語を使い、仕事で理不尽を思われることがあっても不満を心に押し留めた。


すべては「縦社会の規律を守るため」と言えば大袈裟かも知れないが、ある程度「先輩・後輩」としてのモラルや社会人としての品格を守っているつもりだった。しかし、そういった「メンドウな先輩」ほど、そんなモラルや品格など感じておらず、むしろそんな社会の方向性からは目を背けようとする。。

「気に入った仕事しかしない」「上司にもタメ口」「すぐキレる」…の毎日と言えばいいだろうか、会社としては「害」でしかない。。「モンスター化」という呼び方があるが、コイツらがそれにあたり、職場ストレスの根源である。

「関わりを持たずにトラブルを起こさずに付合いを最小限に」というのが大人の対応であろう。職場の人間である以上、どうしても「仕事上やむを得ず関わる必要」があるからである。なので長年「大人の対応」をして来たのだが。。

昨年の秋ごろに「大人の対応」を止めた。

ウチの職場にも「気に入らない輩」は何人もいるが、その中でも最も調子に乗っている「二人」がいる。一人は男、一人は女。私の方が年上だったが、数年前、私が他の事業部から異動して来た経緯もあり、両方ともこれまで「先輩扱い」してやって来たが、あまりの振舞いの悪さに「ストレスの根源」となっていた。

あえて選んだ「職場の敵」 完全冷戦状態

長年、二人には「大人の対応」をしてきた。上に書いた「モラル」や「品格」を守ろうとした‥と言えば聞こえがいいが、今振り返ってみると本質は「二人を敵に回すのが怖かった」のかも知れない。


この二人のようなタイプの人間は異常に「人を観察する目」を持っている。「自分の敵か味方か」を見極める目である。一度「敵」と判断すれば容赦なく攻撃を仕掛ける‥。周囲の社員はそんな二人の性格を察して「当り障りなく」「敵にならないように」接している。私もそうだった。そしてモンスター化に歯止めがかからず、ワガママの限りを尽くす‥。

そんな輩の行動・言動にストレスを感じながら仕事をすることに嫌気がさしたというか‥飽きたと言うか‥なので徹底無視することにした。傍にいても話もしない。すれ違っても挨拶しない‥完全シカトだ。。当然、向こうはそんな私の態度を即座に察したようで、完全な冷戦状態に入っている。。要は真っ向から「職場の敵」となったのだ。

意外にも減ったストレス 理由は‥

そんな生活となって数カ月となって少し気付いたことがあった。それは、意外にも「ストレスが減った」ことだった。簡単に言えば「バ〇とケンカする」のである。ストレスが増加することを覚悟していたのだが、案外そうでなかったのだ。


この「職場の敵」となる選択は、特に「一大決心」したわけではなく、自然な心境の変化から始まったことだ。きっかけは「コロナ渦」である。在宅勤務制度が導入され、精神的に少しゆとりができ、気分的にリセットされた部分もある。

そして、改めて職場の人間関係を考えた時に、受け入れられる関係とそうでない関係があった。上記の二人は完全に後者である。なので、特に無理して敵対しているわけではない。自然の成り行きとして、もはや避けられない事象なのだ。

「避けられない」から「仕方ない」。

しかも「こちらが正しい」ので「ストレスが少ない」なのかな?

ちなみに上記「女」の方は職場で私の隣に座っているが、最近、敬語で私に話すようになって来た。もちろん言葉数は少なく、内心何を考えているか分からないが、少しは身の程が理解できて来たようだ。


しかし「男」の方は完全シカト状態が続いている。コイツは以前、上司に「コノヤロー口調」でケンカを売った噂のある人間なので、私にもそうして来る可能性がある。今の歳になって「腕っぷし」を言っても仕方がないが、仮にそんな状況になっても勝ちはしないだろうが、人間性が否定されるような負け方もしないだろう。それは、今までの経緯から、私自身の気持ちが折れることが100%ないからである。そう確信できた時にストレスが大きく減少したのだ。

イイ人、ヨワイ人へ 戦ってみるのもいいかも

なぜこんなことを記事にしたかと言えば、こんなストレスを感じて「会社を辞めよう」なんて考えた事がある方もいるかも知れない。これは、私を含めた上でのことだが、世に言ういわゆる「イイ人」「ヨワイ人」は、一度こんな風に考え直してもいいかも知れない。


「職場のバ〇」に対して「ガマンする」のではなく「こちらから攻撃する」のだ。もちろんリスクはあるが、おめおめとストレスを溜め込んで精神的におかしくなってしまう前に試してみる価値はあると思う。


2021年1月24日日曜日

倦怠感が止まらない 家内に感じる不信感の日々

夫婦倦怠期4年 解消の糸口が見えない

まさに夫婦倦怠期と呼ぶのだろう。結婚して15年。私たちは今その真っただ中にある。「~期」というからには、それは一時的な「時期」であり、いずれはそういった状況(姿を見るのも声を聞くのも無理‥)は解消されるような感じもするが、そんな気配は全くない。


状況が顕著になったのは忘れもしない4年前、2017年の出来事である。。

簡単に言えば、私の母の介護を廻って、私は家内に信頼を寄せることができなくなった。今風に言えば、家内に対するリスペクトを失ったのだ。

以来、会話はほぼなし(家庭や子供に関する必要事項のみ)。可能な場合はメールや筆談で済ます。食事は子供が家にいる時は共にするが、私と家内だけの時は別々。こんな生活になって今年で4年。昨年からのコロナ渦で、私の在宅勤務が増え、必然的に顔を合わせる回数・時間が増えただだけに、状況はさらに顕著になった。改善の糸口など皆無。夫婦が居合わせる空間では、ただただ重い無言の時間が流れる。

母の介護をお願いするのは理不尽なのか

「母の介護を廻って‥」と言えば、「それを夫が奥さんに押し付けるのは理不尽」と言われる方が多いだろう。それは私も120%承知である。便宜上「介護」という言葉を使ったが、私が家内にお願いしたのは「私が出勤中で物理的に不可能な時間帯での対応」だった。母の介護に関して追い詰められた上でのお願いだった。


2017年に母の身にこんなことが起こった。

・特別養護老人ホームに入居していた母が体調不良を訴える

・強い貧血のため救急車で病院に搬送

・精密検査の結果「慢性の」白血病と診断される

「慢性の白血病」とは不可解だったが、急激な病気の進行は見られず、かといって体力的に抗がん剤治療は難しいとのことで、当面、「貧血」に対する「対症療法」として輸血を月に1~2回行う事となった。そして数か月の入院後、母は元気を取り戻し「退院」が見えてきた頃に異変が起きた。

入居していた特養が退院後の受入れを拒否して来たのである。「慢性」でその進行がほとんど見られないとのことでも「白血病患者の面倒は見れない‥」とのことだった。

病院側も「輸血」以外に治療らしい治療をしていないので入院を継続する事は難しい‥とのこと。ここに母は「行き先」を失ったのである。

老人の押し付け合いとなった「三者面談」

退院前の「三者面談」。主治医と特養職員と私‥事実上「老人の押し付け合い」。実の子としては耐えがたい場だった。「聖職者」という言葉に対しても不信感が確定的になったのもこの面談の時だった。


この時は主治医からもかなりの「圧」を感じた。受け入れを渋る特養職員を横目に「最終的にはあなた(私のこと)の覚悟が必要なんじゃないですか?」との発言‥。

既に認知症が進み始めていた母、状況をどこまで理解していたかは不明(白血病の本人への告知はしていない)だが、当時「家に帰りたい」という発言を繰り返していたこともあり、私は「在宅介護」を決めた。当然、一部始終を家内に相談してのことである。

会社を辞めずに在宅介護を実行する方法

「在宅介護」と言っても、私が会社を辞めるのは、あまりにも経済的に危険なので、介護保険の上限ギリギリまでサービスを使って対応することにした。1日2回、訪問ヘルパーさんに来てもらい、身の回りの世話をお願いする。ただし「おむつの処理」は最低でも1日4回は必要(ケアマネさんの指導)なので、早朝(出勤前)と夜(出勤からの帰宅後)の2回は私が担当。昼間の2回をヘルパーさんにお願いした。ここに家内の担当は私の判断で避けた。


母の朝食は私が(出勤前に)作り、昼、夜は「老人向け宅配食」を毎日デリバリーしてもらった。当時、母はまだ「自分で食事をする」ことはできていたので、食事を母の元に運ぶだけで、母は自分で食べてくれていた。

家内には「宅配食を業者から受け取って家内に渡す」ことと、急用で母が人を呼んだ時(私もヘルパーさんもいない時)に対応することをお願いしたのだが‥

実際に「在宅介護生活」が始まってから数日で家内の態度が豹変した。

家内の話では母の認知症が原因と思われる特異な行動(キレる、何度も呼び出す)があったそうだ、そして、直接口にはしなかったが「面倒見きれない」という態度がアリアリだった。しかし、私が私が休みの日に母の様子を伺うと、そのような特異な行動は稀に見受けられる程度であったが‥家内は受け入れない‥この辺から、私の家内に対する不信が始まった。

致命的な不信感 困窮時に届かなかった「家内の手」

当時、まだコミュニケーション能力は残っていた母、私は「用はなるべくヘルパーさんか私に言う」ように話したり、必要なことは画用紙に大きく書いて母の見える所に置くなど工夫して、何とか「私が会社を辞める事態」を防ぐように努力した。

しかし、家内の悪態は納まらなかった。


私が勤務から帰ると、明らかに「私は疲れている」という態度でリビングの椅子に座ってテレビを見ている‥ちなみに、当時、家内は今やっている「パート」はしていない。全日、在宅している状況だった。

「全日在宅」だからといって、「ヒマ」だとは言わないし、「夫の母の介護を頼む」ような時代でもない、私も母自身もそれは望まない。ただ、「私の退職」は母どころか子供たちを含めた家族全体を巻き込む事態になるため、それを避けるために家内にはサポートをお願いしたのだが‥

その気持ちは通じていなかったようだ。

「家内の反応」は私にとってはショッキングだった。「追い込まれた時の人の本性」を垣間見た感じで、それが「自分の妻」であり、それが「最低の人間性」に見えたからである。

「退職」を回避し、私を中心にケアマネさん、ヘルパーさんを含めたチームに家内も加わってもらう‥そのことにすら「不満」を露わにした家内‥「母のため」とは言わない。病院からも特養からも受け入れを拒まれ、追い込まれた私に協力できない‥それを夫婦と呼んでいいのか‥私の葛藤が始まる‥。

崩れ去る夫婦としての感情 決定打となった一言

夜、帰宅後に憮然とした家内の態度を尻目に母の「下の処理」をしたタオルを手洗いする(洗濯機は衛生上問題があるとのことで)‥そんな毎日。病院も老人ホームも‥そして自宅でさえも快く迎えられない‥夜のおむつ替え‥母の大便の処理をしながら、私たち親子は「介護弱者」(そんな言葉があるなら‥)に陥っていることを悟った。

しかし、その生活は2ヶ月で終わった。母の体調が再び悪化して、また救急車で運ばれてしまったためである。その時の家内の安堵したような表情は今でも忘れられない。。


そして、母の「再入院」の数週間後、私の家内に対する不信感を決定付ける出来事があった。私は母の再入院後、不信感を抱きつつも家内との関係改善を望んでした。「いろいろと(母の事で)苦労を掛けてすまなかった」という体で家内に接するよう心掛けていたのだが‥。

その時は、子供(当時小学2年の次男)を交えた何気ない会話だったが、偶然、話題が母のことになった。「介護(自宅での)は大変だった」っといったような話をしていたところ、家内から一言‥


「おとうさん(私)は、おばあちゃん(母)の面倒を見るのがイヤだっただけだよね。」


この時、私の中で何かが崩れ去った。

悲しみ、怒り、諦め、呆れ‥などなどが入り混じった感情‥

即時、怒り狂って家内に反論すべきだったかもしれない。「怒り」を前面に出さずとも、発言の真意を問いただすべきだったかも知れない。でも、その時、私にはできなかった。「驚き」と「動揺」で私の思考が停止してしまったからだ。

この言葉の真意は、後年になって家内に直接聞いたが不明だった。家内はこの言葉を覚えていないと言っていた。どういうつもりの発言だったのか。「何気なく」で許される言葉なのか‥子供の前で‥。

離婚しない理由 「子はかすがい」を実感

今の状況であれば、離婚しても心情的には後悔はないだろう。ただ「子供のため」「慰謝料などの経済的な理由」から踏みとどまっている感じだ。「子はかすがい」とは本当によくできた言葉だと‥身をもって実感している。


「昔のことを根に持つな」「ありふれたサラリーマンがそんなことを言えるご身分か」「それもこれもすべて自身の不徳」などなどの考え方もある。そんな葛藤と4年間戦い続けている‥

家内はたぶん、私自身が体調不良に陥っても面倒見てはくれないだろう‥口では愛情らしきことを語っても、その実が感じられない‥自分が最も追い詰められた場面でそっぽを向いてしまった女‥その女をこれからどうやって信頼して行けばいいのだろうか‥

そう思うと「信頼回復」「夫婦としての関係回復」は今のところ考えられない。


2021年1月21日木曜日

3回目の月命日 墓参りの花は自費で購入 本当の自立とは

月命日がもう3回目 早いものである

東京都の新規コロナ感染者、今日は1471人。減っているとは言い難いが、急激に増えているわけでもない。。そろそろ緊急事態宣言の効果も出て来るだろうし‥私としてはこの調子で2月末まで持ち堪え、ワクチン接種が始まり気候も暖かくなり、新規感染は大幅に減少‥GW明けにはワクチンの順番が私たちにも回って来て、接種した頃には「オリンピック開催に間に合った!」などというニュースが流れる‥という令和3年であればいいなと考えているのは私だけだろうか‥。


さて、先日、3回目の月命日がやってきた。早いものである‥もう3ヶ月。もはや、私が喪中であるなど職場で覚えている人間などいないのだろう。職場も家庭もすっかり日常が戻っている。何かとせわしい年末年始もあったので、月日の流れが余計に早く感じたのかも知れない。

正月2日にも家族を連れて墓参りには行ったので、墓参り自体は2週間ぶりである、今日は一人。平日の休暇、霊園にはほとんど人影もなく、静かな墓参りとなった。四十九日の法要後、私としてはこれまでにないペースで墓参りに来ている。もはや「病院へ見舞い」に行く必要もない。。はっきりとそう決めたわけではないが、月一回程度、月命日が「墓参りの日」になりそうだ。そして、月命日に自宅の仏壇の掃除もやる‥。

供養を義務にしたくない 私なりの墓参りの心得

特段な根拠はないのだが‥「月一回」ペースがちょうどよいように感じる。ただ、必ずそうしようと決めることもしたくない‥月命日を「義務」にしたくないからである。


これは、母が亡くなった時もそうだったが、自宅に母を連れ帰り、傍らでお線香をあげていたが、「火を絶やさないでください」と葬儀屋さんに言われた。しかし、狭い自宅の部屋の中で一日中線香の火を絶やさなければ家中煙だらけになる。換気も夜は寒くて厳しい。煙たくて睡眠にも支障が出て、朝起きると頭が痛い‥なので線香の火は止めた。葬儀まで3日間、この状況は厳しい。精神論を適用して「亡くなった母のためだから‥」と考えて煙を我慢することもひとつだが、私としては、母に対して行う事を「義務」にしたくないと考えた。

そう、「義務」にしたくないのだ。

あくまでも前向きな自身の意志によって墓参りに行く‥表現が不適切かも知れないが、気が向いた時に、本当に気持ちが父、母、ご先祖様の方に向いている時にお参りをする‥そうしたいのだ。。

墓参りに使う花代の違いにビックリ!

ところで、ちょっとセコイ話だが‥墓参りを習慣的に行う場合に、ふと思ったのだが、お供え用に使う花‥結構値段が高い。。霊園の管理事務所で買うと一束1,000円‥一対(二束)だと2,000円‥この辺あまり気にした事はなかったのだが‥花ってこんなに高かったっけ‥と少し驚いていた。。


正月に家族で墓参りに来た時は一束1,200円‥ちゃっかり値上げしている‥家族には言わなかったが、管理事務所もシッカリシタモンダ‥と腹の中で少し笑った‥。ちなみに今日(1月21日)は「一束1,000円」に戻っていた。1,200円は「シーズン価格」のようだ。。一般的には「聖職」のカテゴリに入る業界だと思うが‥オカネにはシビアらしい‥。

さらに、先日、近所のホームセンターに行ったとき、似たような「お供え用」の花束が売っていた。値段を見ると、驚愕の「488円」!。


はっ!!?


半額以下!!!!?


まー「一束」の量がやや少な目には見えたが、私には十分に思えた。そして「お供え用の花」はこのくらいの値段(一束500円)が私の感覚とは一致する。墓参りに行く途中にホームセンターに立ち寄る手間はあるが「半額以下」が決定打となった。

なので、今日の花はホームセンターで購入した。

費用の負担は親か自分か 経済的自立の時

そしてもうひとつ‥ふと思ったことがあった。「購入費の出所」である。今まで入院費や市役所で住民票などを取ったりする費用は、すべて母から預かったお金から支払っていた。これまでの墓参りも何となく「母に代わり」に行っている感じが強く(当時は父の遺骨はまだ自宅にあり、お墓には母方の先祖だけが入っていたため)、花代などは母のお金を使っていた。


本来ならば、これも親孝行で「自分の稼いだお金で」と行きたいところではあるが、月7、8万必要とする入院費用を自身の給料から賄うことは現実的に難しく、その他諸々の費用も含め、母やお墓に関する費用などは、すべて母の年金から負担していた。

でも、それも終わりにしなければならない時が来た。もう母に年金は支給されない。

小さな負担だが、今日の墓参りの花代は私の自費だ。

そして、自宅の固定資産税も今まで母のお金に頼るという「甘え」をしていた。これも終わり。年単位で支払っている「お墓の維持管理費」も同様。大袈裟かも知れないが、経済的にも完全に「親から自立」すべき時が来たのだ。

50歳にして辿り着く「本当の自立」

子供は生まれてすぐには経済面のみならず、食事も寝起きもウンチの処理さえもすべて親の援助を受ける‥。おとうさんやおかあさんがいないとコワイ‥なんて場面もたくさんある。でも、やがて成長し生活のほとんどは自分でするようになる。小学生の頃には親から教えてもらっていた勉強も、中学生の頃には自分でするようになった(私の場合だが‥)。


そして就職して「お金」という経済的な面でも、ほとんどは自分で賄うようになる。。私自身、20代で就職して給料をもらうようになり、当時、一丁前に「自立した」と自負していたように思う。まーそれはそれでいいのだが、今考えれば「本当の自立」なんてそう簡単にできるモノではない‥と思う。

私は一人っ子だったこともあり、後年、結婚後に「二世帯住宅」での生活となり、親と共同出費という名目で経済的に援助してもらう場面が人より多かったかも知れない。。

学費、婚約・結婚費用、住宅購入費用、固定資産税、自動車税、医療費、入院費用、介護費用、葬祭費‥そして諸々の手続き費用‥振り返ればキリがない。。でも、もうすべて終わり。とうとう「お金」の面でも親から離れる時が来た。

そんな思いに耽りながら、今日は「二束で976円」の花を自費で購入したのだった。


2021年1月17日日曜日

銀行の相続終了 返却された預金通帳に印字された一言に‥

休暇を利用しての諸手続き まだまだ続く

昨年10月に亡くなった母に関する様々な手続きは、年明けの今も続行中である。急を要する手続きではないため、会社の休暇日を利用して徐々に進める感じなので、進み具合は余計に遅くなる。

昨年11月の四十九日の法要以降は相続関係の手続きをしているが、今日は自宅の土地と建物の相続手続きのため司法書士事務所に相談に行った。代金の見積もりやら必要書類のとりまとめやら‥まだまだ手が掛かりそうである。

親からもらったお金「大事に使う」は普通の感覚

さて、先日、昨年末から手をつけていた銀行預金の相続手続きの終了連絡が来た。母親名義の通帳から私名義の通帳にお金が振り込まれたのである。普段、あまり見慣れない額の金額なので、少々身構える感じであるが、もちろん、このお金は通常の生活費としては使えない。子供たちの学費にするか‥子供たちが結婚する時に与えるか‥はたまた、よほど生活資金に困った時の「最後の砦」とするか‥

要は「大事に使う」ということである。


言い草は色々あるだろうが、自分としては、自分で稼いだお金ではないので、シャーシャーと使う気になれない‥というところがホンネだ。たぶん、これが正常な感覚なのだろうと思う。

しかし、振り返るとそんな「正常な感覚」を見失った時期が私にはあった。

インターネットビジネス 副業を本業へ移行

数年前になるが、私は「インターネットビジネス」で生計を立てようとしたことがあった。会社を辞め、ネット上で顧客から仕事を請け負って文書を作成したり、「アフィリエイト」と呼ばれる方式で広告収入を稼ぐ仕事である。


最近は「ユーチューバー」と呼ばれる方々が自身で「動画」を投稿してアクセス回数を稼いだり、その動画に広告を貼りつけて収入を得る方式が主流となっているが、数年前までは「ブログ」がその主流であった。

簡単に言えば「副業」の部類に入るものであるが、それを「本業」として成功している方々の体験談などを真に受け、自分でもできると思い込んでいたのだ。こともあろうに、当時、私は親から預かっていたお金を、自身が「インターネットビジネス」で稼げるようになるまでの生活費の補填にしようとしてしまった。

当時、私は大真面目に「脱サラ」として家内に相談したが‥当然、家内は大反対。家内の父親まで出て来ての大騒動に発展した。私は実家にまで出向いて家内の父親に説明したが‥今考えれば同意を得られるわけがない。。その頃の私の「副業収入」は月に5,000円にも満たない‥。しかも、世間的には「胡散臭さ」が払しょくしきれていない分野だ。

「これから本業として取り組めば2年以内にはビジネスは軌道に乗る‥」

何を根拠にそんな説明をしたのか‥

何の自信があってそんな気持ちになったのか‥

不惑の暴走 恥ずかしくもあり背筋も冷える

今考えれば、40代後半にもなって「実績のない絵空事」を、よくも真剣に語ったモノだと自分でも恥ずかしくなる思いだ。たぶん「会社への反抗」「社会への反抗」が暴走して判断力が麻痺してしまったのだろう‥結局「本業への移行」は断念。会社も辞めずに今に至るが、当時の私の行動は「反省」どころではなく、「人生の汚点」とまで感じるくらいだ。


そして、結果論ではあるが、その「大騒動」の数年後にこの「コロナ渦」である。月5,000円にも及ばない状況で会社を辞めて「ネットビジネス」で成功できる甘くはないだろう。‥というより、そんな状況を打ち破るほどの「メンタル」、「覚悟」が自分にはなかった。今思えば、あの時、無理に「開業」していたら、今頃どうなっていたか‥考えただけでも背筋が冷たくなる。。

「親からもらったお金」である程度生活は続けられていたとしても、自分の性格的に計り知れない程の重いストレスに襲われていたような気がする。私の暴走を止めてくれた家内や家内の父親には感謝するしかない。

預金通帳に印字されていたメッセージ

母の銀行預金の相続が終了し、解約処理の終わった預金通帳が郵送されて来た。通帳の最後に「長い間のお引立、誠にありがとうございました」というメッセージが印字されていた。

私が母から通帳を預かったのが10年程前。母がいつその口座を作ったのかは定かではないが、この口座は本当に長い間使われたのだろう。そして最後の数年に、バカ息子がバカな形でお金を使ってしまおうとした‥。そんな歴史を乗越えてのメッセージに見えた。

簡単で形式的ではあるが、私のひとつの「悪しき教訓」を忘れないように記憶に留めよう‥送られて来た預金通帳を見てそんなことを思った。


2021年1月11日月曜日

成人式への違和感 私たちの頃もそうだったっけ?

私は成人式に参加しなかった

 コロナ渦中で多くの自治体で成人式が中止となっているそうだ。


「中止」「強行」「衣装のキャンセル料」「一生に一度」

こんなワードがネット上に飛び交う。Yahoo!のトップニュースでも、地上波テレビでも成人式の話題ばかり。少々ウンザリする。。正直、私は成人式が必要なのか‥疑問が強い。‥というか「いらない」と思っている。

もう30年前になるが、私は成人式には参加しなかった。

メディアを通して見る成人式の違和感

今日もそうだったが、ネット記事や地上波放送といったメディアから流れて来るのは「お涙頂戴」と「変わり者」と「ヤンキー」ばかり‥成人式を迎えたタレントを番組に呼び、親や友人への感謝の手紙を読ませて涙を流させ、奇抜な発想を持つ成人にインタビューして「同じ考え、同じ境遇にある人たちに力を与えたい」と言わせ、「ド派手衣装」や「羽目を外した」成人の画像をネットに掲載する‥


このような成人は全体のほんの「ゼロコンマ数パーセント」に過ぎない。その他大半の「普通の子」は無視して、「目立つ子」だけをスポットする‥それだけ見せるのだから、当然それが今の成人代表‥のように見えてしまう‥。

完全に「大人」の考えが垣間見える。「視聴率」と「クリック数」を稼ぎたい大人の考えである。20歳で少し元気があり過ぎるのはやむを得ないだろう。少し礼儀が出来ていないのであればこれから直せばよいことである。。ただ、過剰に成人式をスポットする‥偏った形でスポットするのは、それを利用しようとする大人の思惑が見え隠れしてとても不愉快なのだ。

成人式 昔はこんなだったかな‥

私は30年前、成人式に参加しなかったが、当時「不参加」にほとんど嫌悪感のようなモノは感じなかった。「バイトに行くから成人式に行かなかった‥」そんな程度だ。特に親に(成人式行って来いと)勧められたわけでもなく、友達に誘われることもなかった。まー私に友達が少なかったこともあるだろうが(汗)。


何を言いたいかというと、私が20歳の頃は、今のように「成人式」そのものがメディアに取り沙汰されることも少なく、「成人式、行こう!行こう!」なんて風潮もなかったように思う。感覚的には、昔はほとんど話題にされなかった「ハロウィンパーティー」が今は秋の一大イベントに変わったような感じだ。昔は、成人式の日は「"青年の主張"を放送する日」ぐらいにしか思っていなかった。

クリスマス、バレンタインデー同様にハロウィンや成人式も「企業の経済効果狙い」が見え隠れするところが気に入らない。ただ、成人式以外は「お祭り」なので「楽しい」と割り切ってしまうことも出来るが、成人式はそうはいかない。「お金」に絡むような思惑とは無関係な位置付けになってほしい。

成人式は祝いたいのか? 祝ってほしいのか?

私にはふたりの子供がいる。上は高校生なので数年すれば「成人」となるが‥「親の立場」から考えても「オマエ‥立派になったなぁ~‥」と感慨に浸りながら成人式を祝う気にはならない。。

子供からしても、既に自分の誕生日でさえ「かまってくれるな‥」モード全開である。。「成人式なんて別に祝って欲しいとか思わない‥」がホンネではないか。。「祝う気のない親」と「祝って欲しくない子」がいて‥と考えれば、成人式の存在意義は何なのか‥疑いたくもなる。

ただ、これは育って来た境遇や環境にもよるので一概には言えない。「よくぞここまで成長してくれた」と心から祝いたくなるご家族もいるだろう。それ自体は素晴らしいことなので、疑問一辺倒の考えではないことは付け加えておきたい。

私の考える成人式の意義と親世代の責任

今はコロナ渦で苦戦しているが「のど自慢」という番組がある。参加する意図は人それぞれだろうが、多くは「地域活性化」「地域貢献」「地域を元気にするため」のように思える。「ほとんど練習してないだろう」とか「勢いに任せて歌ってる」感じの参加者が多いように思えるからだ。


それでも会場から声援が飛び、会場が沸き、みんなが元気になる。高揚感を共有できる。。「のど自慢」にはそんな効果があると考えている。成人式にもそんな効果が期待できるような気がする。。

成人式を迎えるスーツ姿のお兄さん、振り袖姿のお姉さん‥を中心に近所の人々が声を掛ける‥「大きくなったねぇ」「立派になったねぇ」‥高額でなくてもいいので「ご祝儀」でも渡せればサイコーである。小さな子供たちもお兄さんお姉さんを見て「カッコイイ」「キレイ」と感じて憧れを持つ。。成人同士は久し振りに会う高校、中学時代の友達に会ってチカラをもらう‥。

もちろん土台は「自分たちの祝い事」ではあるが、もうひとつの大きな土台に「地域活性化」「地域交流」があるのであれば成人式も捨てたものではない‥。もし今の成人の皆さんが当然のごとくそのような考えで成人式に参加しているのであれば、私は上に書いた記事をすべて削除しなければならないが‥。

ただ、これはメディア任せにするのではなく、成人の皆さん任せにするのではなく、私たち親世代がそのような風潮を作って行かなければならない‥というところが課題なのだろうと思う。


2021年1月4日月曜日

友達とは何だったのだろう 喪中はがきと年賀状のやり取りで

今、私には友達がいない

少し大袈裟な言い方かも知れないが、今、私には友達がいない。仕事に明け暮れ、休日も自宅の用、子供の用に明け暮れているうちに、いつしか友達との付き合いが皆無になった。

スマホに登録している電話番号のほとんどは会社の知り合いである。



そんな私にもかつては少なからず友達がいた。今思えば一番友達が多かったのは、やはり学生時代。

毎週土曜の夜にカラオケボックスに集合し翌朝まで歌っていた友達がいた。軟式草野球チームを作り毎週日曜日に集まって行動していた仲間もいた。彼女が欲しくて作戦会議をしてから合コンに臨んだ友達、BBQ、スキー、テニスなど休日や平日の夜などに一緒に遊びに行った友達。。

友達が友達を連れて来て、また友達になる‥年々友達が増えて行った‥携帯電話に登録する電話番号もどんどん増えて行っていた。しかし、就職して友達の増加が頭打ちになる。

そして‥

友達となかなか会う機会が作れなる。

会うたびに「久しぶり」‥と言うようになる。

長期休暇の時にしか連絡を取り合わなくなる。

会わない間隔が年単位になる。

いつしか年賀状だけのやり取りになる。

いつしかSNSの記事で近況を確認するだけになる。。

「友達とは?」 経験からでしか得られない答え

仕事に追われ、休日くらいは一人でいたいと思うからなのだろうか、結婚して家庭を持ち、休日は家庭の方に時間を使っているからなのだろうか‥はっきりした理由は分からないが、とにかく、10代、20代の頃に比べると「プライベート」の中に「友達」が入って来なくなって久しい。


そして、恐らく、それを寂しいと感じていない自分がいる。友達が減り始めてもう20年にもなる。友達との付き合いが途切れてもう10年以上になるだろう。ケンカしたわけでもないので、寂しいと思うのであれば、自分から接点を求めて行動するだろうがそれもしない。。

中学生や高校生の頃に思い悩んだ「問い」を改めて問う‥友達とは何だろう‥。今思えば、私の場合、友達はすべて「自分のため」に作っていた。

「自分のための友達」それでよかったのか‥

もちろん、幼少時代からそんなことを考えていたわけではないが、10代後半から20代にかけての私の「友達」は皆そうだった。「自分の能力向上のため」「自分の人間性向上のため」「自分の経験値を増やすため」「自分の恋人を作るため」‥友達として付き合ってくれた皆様には申し訳ないと思うが‥事実である。私に「友情」なんてあったのだろうか。。


就職・結婚を経て、歳を重ねるごとに、自身の向上に「友達の存在」を必要としなくなった。30代以降、友達ができなくなった最大の理由はそれである。「できない」のではなく「作らない」のだ。必要ないから‥。

これは自分でも感じるが、人情という点から考えれば最低である。「あれ、オレってこんな人間?」と思うこともしばしば‥。50歳となり、私にとって「友達とは」の答えがこれである。善し悪しなど考える気はないのだが‥少しの虚しさを感じる。。

喪中はがきと年賀状 チグハグな往来に憂鬱

昨年の10月に母親が亡くなった関係で11月には友人・知人に喪中はがきを送ったのだが、繋がりの深かった学生時代の友達2人(A君とO君)から年明けに年賀状が来てしまった。ふたりとも上に書いたエピソードのすべてに登場するような繋がりの深い友達だった。

「A君」には喪中はがきを送っていたが、年賀状が来てしまった。「O君」には喪中はがきすら出していなかった。。


もちろん、非礼を咎めるような間柄ではない。最低限の礼儀には配慮するが「あ!ワリィ―ワリィ―」で済んでしまうような仲である。ただ、かつては、あれほど共に遊び歩いた友達であったが、今では「年賀状のやりとりだけ」になっていた。

そしてさらに「ハガキのやり取りすらチグハグ」になってしまっているようだ。。先程、ポストに届けられていたふたりの年賀状を見て、そんな感慨を覚えた。

でも、巡り巡ってまた会う日もあるかも知れない。また遊びに行く日もあるかも知れない。今は、そんな風に前向きに考えたいモノだ。


父命日の墓参り 18年目に思うこと

思い起こすこと18回 父が倒れてから亡くなるまで 昨日が父の命日。毎年の事であるが「倒れた日」の3月14日から「亡くなった日」の19日までは私の中で当時の回想が優先される。特にそうしようと思っているわけではないのだが、頭の中に蘇ってしまうのだ。 今年も例外なく父が倒れたあの日、泣...