「卓球しながら泣く」に賛同できなかった
最近ネット記事で見ない日がないほど連日取り上げられている福原愛と江宏傑。真相など知る由もないがネット記事を読む限りは残念な限りである。先のリオデジャネイロオリンピックでも卓球日本を背負って戦う彼女を時を忘れて応援したモノだったからだ。
福原愛を知ったのは幼少期に「天才卓球少女愛ちゃん」と呼ばれていた頃からだった。小さな女の子が泣きながら卓球をする姿がかわいいと評判になり、バラエティー番組などに引っ張りだこだった。当時私は中高生くらい。上手く言葉にはできなかったが、世間的な反応に相反して「愛ちゃん」に違和感を感じていた。
「違和感」は「卓球をしながら泣く」ところだった。テレビではそれが「かわいい」「愛らしい」ともてはやされていたが‥「劣勢になると泣く」「ミスをすると泣く」。。この様子になにか賛同できないモノを感じていたのである。
福原愛は幼少期から卓球が大好きだったのか?
しかし時が経ち、卓球王国たる中国選手と互角に戦い、オリンピックのメダリストになった彼女をいつしか応援するようになっていた。卓球の実力だけでなく、人間的にも立派に成長したんだ。。と思っていた。
でも、それはとんだ思い違いだったようだ。。
「愛ちゃん」は何も変わっていなかった。。
私は自分に子供ができてから思うようになったのだが、親の夢や希望を過度に子供に押し付けることは、親として最大の罪である‥と思う。
詳細に語れば長くなるので簡単に言えば、人生の基本となる部分は教えたり、強いたりすることは必要である。でも成長して「自身の生きる方向」まで親が決めてはいけない。「変な方向」に行かないように見守ることは大切だが、基本的に「方向(何をやりたいか)」に親の決定権はない。
福原愛は幼稚園児の頃から卓球が好きだったのだろうか。。
学生時代を卓球と共に過ごして後悔しないくらい卓球に没頭していたのだろうか。。
もちろん卓球はおもしろい。私も小学生の頃地域の卓球クラブに通っていた時期もあったが、卓球が爆発的に人気があったわけでもない。時代背景なども考えると福原愛が自身の意志で卓球に没頭していたとは思えない。
ここに「親の意向」が見え隠れする。
親が自分の夢を子供に押し付ける罪
将来的に世界に通用する卓球選手に育て上げる。「スポーツを通して人間性を磨く」のではなく「世界に通用する選手にする」という親の意向。別の言い方をすれば「親の希望」「親の夢」。もっと言えば「親が叶えられなかった夢を子供に託す」。もっともっと言えば「親が叶えられなかった夢を子供に押し付ける」‥。
ではなかろうか。
劣勢になって泣いてもいい。試合に負けて泣いてもいい。対戦相手をリスペクトしなくてもいい。。世界に通用する選手になれば‥。親が自分の夢を押し付けることと引き換えに卓球以外の場面では法外に甘やかす。。
これは親の罪ではなかろうか。
今回の不倫騒動は、30数年続けてきた親の教育方針が招いた結果なのだと私は思う。もちろん、当の本人にも原因はあるだろうが、本人をそのようにしてしまったのは親である。報道されている中で「要介護状態の母親を残して‥」という話を聞いて何となく上記のように思ったのである。福原愛は母親に「旅行に行く」と言ったのだろうか?「友達に会いに行く」と言ったのだろうか?それとも‥
結局、それを許さざるを得ない親子関係がそこにあったのではなかろうか。。子供(愛)の人生を自分の意に染めた親が卓球現役引退後は、せめて子供の思う通りに‥と‥。身体の自由の利かない自分とイケメンのダンナを残して帰国する子供を親はどんな気持ちで送り出すのだろうか‥。
「劣勢になると泣く子」は変わってなかった?
日本女子卓球界を牽引するような立場にいた頃の福原愛は立派に見えた。プレー中のマナーも問題ないように見えたし、後輩たちにも慕われているように見えた。近年、中国選手に太刀打ちできる選手が何人も出てきいることは福原愛の功績であることは間違いないと思う。なので今まで結構応援していたしファンでもあった。
でも、心の奥底は、幼少の頃の「劣勢になると泣く子」から変わっていなかったのか?
「天才卓球少女」が卓球を通してではなく「一人の人間」としてクローズアップされた時、それに耐えうる人間性を彼女は持っているのだろうか。今の状況ではそれは難しいように感じる。むしろ、卓球指導者や解説者としての道も閉ざされてしまいかねない。彼女から卓球を奪ってしまったら、この先の彼女は転落の一途を辿るだけなのだろうか。。
そんな福原愛の姿を見るのは本当に憂鬱である。