2021年3月25日木曜日

天才卓球少女の行末に感じる憂鬱 元凶はどこにあるのか?

「卓球しながら泣く」に賛同できなかった

最近ネット記事で見ない日がないほど連日取り上げられている福原愛と江宏傑。真相など知る由もないがネット記事を読む限りは残念な限りである。先のリオデジャネイロオリンピックでも卓球日本を背負って戦う彼女を時を忘れて応援したモノだったからだ。


福原愛を知ったのは幼少期に「天才卓球少女愛ちゃん」と呼ばれていた頃からだった。小さな女の子が泣きながら卓球をする姿がかわいいと評判になり、バラエティー番組などに引っ張りだこだった。当時私は中高生くらい。上手く言葉にはできなかったが、世間的な反応に相反して「愛ちゃん」に違和感を感じていた。

「違和感」は「卓球をしながら泣く」ところだった。テレビではそれが「かわいい」「愛らしい」ともてはやされていたが‥「劣勢になると泣く」「ミスをすると泣く」。。この様子になにか賛同できないモノを感じていたのである。

福原愛は幼少期から卓球が大好きだったのか?

しかし時が経ち、卓球王国たる中国選手と互角に戦い、オリンピックのメダリストになった彼女をいつしか応援するようになっていた。卓球の実力だけでなく、人間的にも立派に成長したんだ。。と思っていた。


でも、それはとんだ思い違いだったようだ。。

「愛ちゃん」は何も変わっていなかった。。



私は自分に子供ができてから思うようになったのだが、親の夢や希望を過度に子供に押し付けることは、親として最大の罪である‥と思う。

詳細に語れば長くなるので簡単に言えば、人生の基本となる部分は教えたり、強いたりすることは必要である。でも成長して「自身の生きる方向」まで親が決めてはいけない。「変な方向」に行かないように見守ることは大切だが、基本的に「方向(何をやりたいか)」に親の決定権はない。

福原愛は幼稚園児の頃から卓球が好きだったのだろうか。。

学生時代を卓球と共に過ごして後悔しないくらい卓球に没頭していたのだろうか。。

もちろん卓球はおもしろい。私も小学生の頃地域の卓球クラブに通っていた時期もあったが、卓球が爆発的に人気があったわけでもない。時代背景なども考えると福原愛が自身の意志で卓球に没頭していたとは思えない。

ここに「親の意向」が見え隠れする。

親が自分の夢を子供に押し付ける罪

将来的に世界に通用する卓球選手に育て上げる。「スポーツを通して人間性を磨く」のではなく「世界に通用する選手にする」という親の意向。別の言い方をすれば「親の希望」「親の夢」。もっと言えば「親が叶えられなかった夢を子供に託す」。もっともっと言えば「親が叶えられなかった夢を子供に押し付ける」‥。

ではなかろうか。


劣勢になって泣いてもいい。試合に負けて泣いてもいい。対戦相手をリスペクトしなくてもいい。。世界に通用する選手になれば‥。親が自分の夢を押し付けることと引き換えに卓球以外の場面では法外に甘やかす。。

これは親の罪ではなかろうか。

今回の不倫騒動は、30数年続けてきた親の教育方針が招いた結果なのだと私は思う。もちろん、当の本人にも原因はあるだろうが、本人をそのようにしてしまったのは親である。報道されている中で「要介護状態の母親を残して‥」という話を聞いて何となく上記のように思ったのである。福原愛は母親に「旅行に行く」と言ったのだろうか?「友達に会いに行く」と言ったのだろうか?それとも‥

結局、それを許さざるを得ない親子関係がそこにあったのではなかろうか。。子供(愛)の人生を自分の意に染めた親が卓球現役引退後は、せめて子供の思う通りに‥と‥。身体の自由の利かない自分とイケメンのダンナを残して帰国する子供を親はどんな気持ちで送り出すのだろうか‥。

「劣勢になると泣く子」は変わってなかった?

日本女子卓球界を牽引するような立場にいた頃の福原愛は立派に見えた。プレー中のマナーも問題ないように見えたし、後輩たちにも慕われているように見えた。近年、中国選手に太刀打ちできる選手が何人も出てきいることは福原愛の功績であることは間違いないと思う。なので今まで結構応援していたしファンでもあった。


でも、心の奥底は、幼少の頃の「劣勢になると泣く子」から変わっていなかったのか?

「天才卓球少女」が卓球を通してではなく「一人の人間」としてクローズアップされた時、それに耐えうる人間性を彼女は持っているのだろうか。今の状況ではそれは難しいように感じる。むしろ、卓球指導者や解説者としての道も閉ざされてしまいかねない。彼女から卓球を奪ってしまったら、この先の彼女は転落の一途を辿るだけなのだろうか。。

そんな福原愛の姿を見るのは本当に憂鬱である。


2021年3月16日火曜日

釣り2021ハイシーズンスタート 貴重な生活の一部に

睡眠3時間で釣り強行 出迎えてくれた幻想風景

ようやく温かくなって来た。昨年12月に一旦休止した釣りだったが、今日再開した。最近は仕事の立込みが激しく、先週は休みなしの8日連続勤務。。今日は久し振りの休暇だったが、「平日休暇」であることに加え「晴れ」「最高気温22℃」「中潮」の情報に押され、3時間睡眠で朝4時起床。6時に釣り場に到着した。


昨年の経験は生かされていた。平日なので場所取りの必要なし。「4時起床」は私の中で釣りに行く日としては遅い時間だったが、釣り場の人影はまばら‥悠々と場所取りに成功した。

安心して周りの景色を眺めると日の出のタイミングだった。さらに今日は中潮で海の水位が高いだけでなく風も強く、海はうねっていた。その光景は「ド迫力」「超幻想的」だった。昨年後半によく見た「日の出前の朝焼け、点灯している灯台」も幻想的だったが、今日の日の出と海と灯台のコラボもよかった。

ちなみに、こちらの写真に灯台は写っていないが、あまりにも幻想的な風景にパチリ(スマホで撮ったんですけど‥汗)。



魚は戻って来ている感じだが 釣果ゼロの腕前

もちろん好きで始めた釣りではあるが、私の場合、早朝の幻想的な風景に浸り、陽に当たって潮風を受け、昼間の広大な青い海を眺めるだけでも‥またそんな空間の中で釣り糸を垂らしていることが、この上ない気分転換になり癒しを受ける。なので肝心の釣りの腕前を上げる速度が遅いかも知れないが。。今年はぜひ「釣りのウデを上げて行きたい」モノである。



ちなみに今日も釣れなかったわけではない。クサフグが5匹釣れた。。。昨年の12月には「アタリ」すら感じられなかった状態だったので、それに比べると、温かくなって魚が海の浅い領域に戻って来てくれているようだ。

ただ、周りの釣り人を見てみるとサビキ釣りだけで釣っている人は少ないように思う。。やはり今年は「投げ釣り」に挑戦してみたいと思う。ド素人考えなのだが、やはり沖の方まで手を伸ばさないと釣果はそれなり‥なのかもしれない。

ちなみに私の傍で10mくらいの投げ釣りをしていたお兄さんがタコを釣上げていた。タコって釣れるんだ。。。。。

平日の人影まばらな釣り場 堤防先端の迫力

私がちょくちょく訪れている釣り場は「大堤防」と呼ばれている。このブログでも何度か触れたが、ハイシーズンの休日は100人以上の人出があり、「場所を取る」ために早起きしなくてはならない。しかし平日はガラガラ。いつもは争奪戦となる堤防先端も今日はガラ空きだったので、初めて堤防先端に行ってみた。「証拠」がこの写真である笑。




私はいつも堤防中腹の陸側に向いた方の場所を取る。そこで初めて「アジの入食い」を経験したこともあるが、比較的波が静かで座って落ち着いて釣りができるからである。なので「堤防最先端」にあまり興味はなかったのだが、ガラガラだったので少しの時間釣ってみた。。予想通りのド迫力。。立って釣らなければならないが「風景に浸るよりも釣り勝負!!」で堤防に来るなら、やはり「先端釣り」がいいのかも知れない。そして、私も釣れた‥クサフグが‥涙。

使用済みの釣針 処分方法はこんな感じ

私が使っている仕掛けには釣針が6本付いている。何度か使い回すと針が錆びて来るので処分するのだが、処分方法に一定の方法はないようだ。もちろん「釣り場にポイ捨て」なんて言語道断であるが、家に持ち帰ってゴミ箱へ‥というのも何となく気が引ける。原因は「針」である。「針の危険」が仕掛け処分には付いて回る。

昨シーズンの終わりまで使っていた釣針は錆びてしまっていたので、今日は新しい仕掛けを使ったのだが、私の場合、古い仕掛けはこんな風に処分している。


針はすべて糸から切り離しガムテープにくっつける。写真の状態からガムテープを二つ折りにして、針の露出がないようにした後、不燃ごみとして処分する。糸は可燃ごみである。

釣針の処分方法はネットで色々調べてみたが、あまり勧められている方法は見当たらない。「危険がないように不燃ごみとして処分」が基本のようだ。なので私も「お勧め」ではなくあくまでも「私の方法」としての紹介である。この方法を取入れるか否かは自己責任でお願いしたい。

余談であるが、釣りにおける「針の処分」はバーベキューにおける「灰の処分」に似ているような気がする。散々使っておいて、使えなくなったら厄介者扱い。。。ホントに人間は自分勝手な生き物である。

イメージは入食い 今年は体験できるか

昨年9月、忘れもしない3回目の釣りで、私は初めて「アジの入食い」を経験した。以前、よく子供たちを連れて行った「管理釣り場」を凌ぐ勢いで十数匹のアジを釣上げた。あの感触を忘れられず、海釣りにハマっている(写真は当時の釣果)。


幻想的な風景に囲まれ、ワクワクしながら一人仕掛けを海に放り込む。。私としては贅沢な、この上ない気分転換となる時間である。今年もたくさん釣りを楽しみたい。できればたくさんの魚も釣りたい。今年も釣りは私にとって貴重な生活の一部になりそうである。


2021年3月7日日曜日

降格と減俸 とうとう私にも来た会社の現実

神妙な表情の課長 きっとロクな話ではない 

一昨日、勤務中にU次長に「ちょっといい?」声を掛けられた。小会議室に入ると中には直属のO課長が神妙な表情で座っていた。きっとロクでもない話なのだろうという察しはすぐに付いた。


案の定、降格の話。‥とは言ってもそもそも管理職でない私の「降格」とは「等級を下げる」という話だった。簡単に話すとウチの会社は入社時に「1等級」。4、5年働くと「2等級」に自動昇格。3等級までは同じように自動昇格する。しかし、4等級以上は「他者からの推薦」が必要になるため、3等級で滞留する社員がとても多い。私も例外なく「滞留社員」の一人だった。

ここ数年、そもそも会社の業績は緩やかに右肩下がりだった。そしてこのコロナ渦。ウチの会社も少なからず打撃はあった。何年も新入社員の採用はせず、人が去っても補充なし。なので現存する社員の仕事は増えるばかり‥やむなく人を増やす場合は「異動」で凌ぐ‥

こんな状況が続いているところに「コロナ渦」である。「リストラ・降格・減俸」の話が出ない方が不思議‥と思っていた最近だった。

不満は山ほどある でも言わなかった理由は

U次長から言い渡されたのは「3等級から2等級」への降格だった。給与面では「等級手当」が5千円減額される。年単位では6万円の減俸である。言われた瞬間、率直に思ったのは「とうとう自分にも来たか」であった。怒りはあまり感じなかった。


仕事に対するプライドやメンツを語ることも必要かも知れない。「あまり怒りを感じない」のは「真剣に仕事に取り組んでいない証拠」と捉えるような人もいるかも知れない。でも、昨今のコロナ渦の中で、私はこれまで経済的に「無傷」だった。正社員であったために仕事にあぶれることもなく給料をいただく事ができた。結果的に「感染対策」に力を注ぐ事ができ、家族を注意深く見守ることができた。

また、他方で50歳の平社員など会社ではお荷物そのものであろう。リストラや早期退職を斡旋されてもおかしくない立場である‥今後も何を言い渡されるか知れたものではないが、とりあえず、一旦「五千円減俸」で済んで少し安堵した‥と思う気持ちは嘘ではない。

一応、U次長に「拒否(降格を)できるのか?」と聞いてみたが、「決定事項なのでできない」と言われた。まぁ当然である。10歳近く年下のU次長と、1歳年上のO課長と私‥会議室内は不思議な空気だった。世間一般的に「降格」の話がどのように言い渡されるのかなんて知る由もないが、私の場合は比較的緩かったのでは‥などと思ってしまった。

いままで頑張って来たことを正当に評価されていないのか‥私以外のモンスター社員連中にも同様の降格処分がなされるのか‥言いたいことは山ほどあったが、それを口に出す程の「不満のパワー」はなかった。会社が倒産してしまえば「降格」だの「メンツ」だの言っていられないから‥「お荷物社員」が年6万円の収入を諦めれば会社が存続してくれるならそれでいいと思ったのだ。

極小収入にコロナ渦が襲い掛かる不安

私は数年前に「脱サラ」して「インターネットビジネス」で生計を立てようと考えたことがあったが、「ネットからの収入」がほとんどない状態での脱サラに家内は大反対。家内の父親まで出て来ての騒動になった。結果的に断念したのだが、振り返れば子供じみた会社への不満から出て来た「脱サラ計画」だった。


当時は親から預かっていた貯金を切り崩して生活しながら、ネットビジネスの収益を上げていく計画だった‥2年で「会社員時代の収入を越える」という考えだった‥トチ狂っていたのだ。。。。。

そして、当時は絶対に認めなかったのだが「成功できる」と思いながらも、一方で「底知れない不安」があった。それは「経済的に破綻する不安」である。「ネットビジネスで収益が上がる保証」は何もない。むしろ成功する可能性は低い。それを「自分の力」と「自分の想い」を柱にして頑張り抜く。。万が一「気持ちが折れる」ことがあっても今度は誰も助けてくれない。待っているのは「破綻」と「家族離散」と「命の危険」である。

結果論であるが、当時「脱サラ」を実行していたら、恐らく「脱サラした途端にコロナ渦」になっていた。ただでさえ極小収入からスタートする予定だったのだから、そこにコロナ渦のマイナス要因が加わればどうなるか‥計り知れない不安に襲われていただろう。‥というか、性格的に私は耐えられなかったと思う‥。

「子供じみた不満から会社を辞め」「家族の反対を押切り」「親の貯金に頼り」「一般的に怪しいと言われるネットビジネスに私の人生と家族の生活を委ね」そこに「コロナ渦」が襲い掛かる‥不安に耐えられなかった私は今頃どうしていただろう‥

降格の話に「仕方ない」と応える

結局私は「生涯社畜」の道を選んだ。「安定」を選んだのだ。今、確かに会社に不満はある。気に食わない輩もたくさんいる‥。しかし、上に書いた「底なしの不安」に比べたら、本当に本当に「蚊に刺されたようなモノ」である。年6万円の減俸は確かに痛い‥でも「痛い」で済むのである。痛みすら感じられないような不安に襲われて日々を過ごすよりよほどマシである。


なのでU次長に言い渡された「降格、減俸」については「わかりました。仕方ないと思います。」と応えた。とうとう私にも来た会社の現実である。

ちなみに「プライド、メンツ」ということではなく、変に不安を感じさせる必要もないので、家内や子供たちにこの話はしないでおこうと思う。毎月、給与明細は家内に渡しているが、減俸(4月から)になっていることは、たぶん気付かないだろうから‥

蚊に刺されたようなモノである。。。でもやっぱり落ち込むものだ。「安定感の中にある空虚感」。。。。。確実に言えることは「今、ロクな気分ではない」ということだ。


2021年3月2日火曜日

私は団地で生まれ育った 倉庫に保管したアルバムを見て感じたこと

親戚の中で私だけが団地育ち

とうとう遺品整理も終わりが見えて来た。「家の中のモノ」の整理はほぼ終わったので、一昨日から、庭にある倉庫の整理に着手している。まぁ覚悟はしていたが「手強い」作業である。「重い」「危険」「埃っぽい」などなど、「なぜ庭の倉庫に置くことになったか」を考えれば仕方ないだろう(汗)。


ただ、今回は「父母のモノ」を整理することが目的であったが、倉庫には結構「私自身のモノ」が多くあり、私の小中学生の頃の卒業アルバムなども出て来た。。必然的に当時のことを思い出しているうちに、ふとある考えが頭を過った。私は幼少期から成人するまで「団地」で育った‥ということだった。

当然の事ながら私は物心ついた時から団地という環境で育ったのでそれが当たり前、それが普通だった。近所では同世代のたくさんの子供がいて「友達」はたくさんいた。たぶん、一般的な「子供遊び」と言われるものはすべてやったという自負はある。他の子をいじめてしまったこともしまったこともあれば、自分がいじめられたこともあった。

ただ、小学校、中学校くらいまでは、クラスメイトのほとんどは「団地の子」だったのだが、高校生、大学生くらいになると徐々にその数が減って行った。20代の頃には「団地で育った子が周囲にほとんどいない」ことに気付いた。そして、団地に住むのは限られた境遇にある家庭に限られる‥ことも徐々に感じるようになった。

そういえば、高校、大学時代の友達で団地出身だった人はいない(と思う)。私の父も母も家内も子供たちですら‥一軒家で育っている。今、本当に私の周囲で団地出身者は私だけなのだ。。

団地育ちは必ずしも裕福でない?

※ここからは、私自身がそのような境遇にあったために書いていることで団地そのものを差別したり卑下しているものではないので誤解されませぬよう。あくまでも団地という環境に20年以上暮して来た者としての話です。

私は一人っ子で特に不自由なく育ててもらった。もちろん、食べ物や着る物などに困ったこともなく、お金に困ったこともなかった。学校も大学院まで行かせてもらい。結婚後は二世帯住宅の資金も出してくれた。両親には感謝していることに変わりはない。

でも、世間的には‥そうなのか‥そうだったのか‥‥‥‥と思うところがある。父や母の断片的な話では、父は自身で興した個人事業があまりうまく行かず、廃業に追い込まれたようだった。私の遠い記憶では、「就職」「正社員」という言葉をよく両親が話していたのを覚えていた。


当然、日々の生活は楽ではなかったのだろう。そこを起点に考えると、いくつかの両親の行動に関する私の疑問が解決されるのである。疑問とは「大学院に進学したいという私の希望をあっさり認めてくれたこと」「今住んでいる二世帯住宅の資金のほとんどを提供してくれたこと」である。

どちらも大金を要する話である。いくら一人息子の案件であったとしても「甘やかし過ぎでは‥?」と私自身が感じてしまう程だった。。でも真相は‥本当に両親が思っていたことは違うのかも知れない。

そもそも、今の「二世帯住宅」は私が幼少期に建てられるべき家だったのかも知れない。私も「一軒家で育った子」である筈だった。父の個人経営失敗が私の住む場所を変えた‥可能性は十分にある。当然両親はそんなことは承知済だから「せめて学歴は‥」「結婚後の家のお金は‥」と考えてもおかしくない。

両親への感謝は変わらない 今の家を大切に

この二世帯住宅を建てる時に親戚から「一人っ子が家まで建ててもらって‥」のような事を言われて、あまりいい気分がしなかったことを覚えている。ただ、その時に両親が変に話を膨らまして「早く孫の顔でも‥」などと言わなかった‥のは、もしかすると「私を幼少から成人になるまで、団地に住まわせてしまった」ことへの贖罪なのかもしれない。


これらのことを薄々感じ始めた今、当時「一人っ子が家まで‥」と言った親戚連中には言ってやりたい。。「では、あなたたちは子供の頃どんな家に住んでいたのですか?二階建てで自分の部屋があったのですよね?庭があったのですよね?私にはなかったのですよ」と。。

上記、両親の考えはあくまでも「かもしれない」ということであるし、私自身、団地で育ったことを特に後ろめたく感じたことも無ければ、今後もそんな風に考えるつもりもない。両親を恨むつもりもない。子供から大人に成長し、経験を重ね、いろいろと世間を見て来た上で、家の事に関して「あぁーそうなのかな‥」と遺品整理をしながら感じたので思うところを書いてみただけなのだ。


父命日の墓参り 18年目に思うこと

思い起こすこと18回 父が倒れてから亡くなるまで 昨日が父の命日。毎年の事であるが「倒れた日」の3月14日から「亡くなった日」の19日までは私の中で当時の回想が優先される。特にそうしようと思っているわけではないのだが、頭の中に蘇ってしまうのだ。 今年も例外なく父が倒れたあの日、泣...