二世帯住宅が終わるとは
先週、母が死去したことで14年間の「二世帯住宅」が終わった。
事実上は6年程前、母が脳梗塞で入院したことで二世帯での生活は終わっていた。幸い脳梗塞は軽度で半年後には退院できたが、その頃から別の病気も発症するようになり入退院を繰り返すようになった。
当初は入院しても目標は「退院、自宅で元の生活」だったが、いつしか「退院後は介護施設で暮らせるように」に変わり‥2年程前からは「退院」という目標自体が出て来なくなった。
9月の終わり、悩んだ挙句「胃ろう造設」を行ったのだが、その時の目標は私自身の中だけで「認識力の回復」であった。全くの素人考えだが、栄養がしっかり体内に入ることで身体が活性化されて認識力が回復し、再び私や子供たち(母から見た孫)を認識できるようになってほしい‥
「退院、自宅生活への復帰」がいつしか「認識の回復」にまで変化して行った。徐々に‥徐々に‥弱って行く母、6年間で決して「回復した」と実感できたことは一度もなかった。そして先週、母の死去によって二世帯は終わった。
両親お気に入りの家 活用されたのは僅か5年
私は物心ついた時から市営団地で暮らしていた。大学を卒業して就職し一人暮らしを始めるまで団地で育った。今の家は両親と共同で29歳の時に将来を見据えて二世帯住宅用に購入したものである。
親戚の建築士が設計した家で素人目に見ても非常にしっかりした感じの家で、父親はこの家をとても気に入っていた‥と母がよく言っていた。若かりし頃はかなり苦労した上でようやく手に入れたマイホーム‥父には喜びもあったのだろう。しかし、家を建てて6年後に父は亡くなった。
そして、父の死の2年後に二世帯生活がスタートするが、その後、約5年で母の入退院生活が始まる。‥そう‥この家が二世帯住宅として役割を果たしたのは僅か5年。。母が生活していた家の一階部分は、母が入退院を繰り返している間は「誰も使っていない」状態となった。
父と母の希望は家の保存ではなく活用
昨年、母の退院が現実的でなくなってきた頃、私はひとつの決断をした。それは「家の一階部分の使用」だった。それまで子供2人を含んだ私たち4人族は二階で暮らしていたのだが、「一階も使おう」と決めたのだ。
母が退院して「今までの生活に戻れるように」と「入院した当時のまま」で一階部分を保存して4年‥子供たちが成長し少々手狭になって来た二階‥本当にこのままが母のためなのか‥と疑問に思うようになった。
そして、昨年(令和元年)、母の外出着や家具、電気製品など大幅に処分、退院できたとしても「寝たきり」であることはほぼ間違いないため、母を介護するのに必要な衣類や最小限の家具、布団などを残し、母の部屋に私が入り、別の一部屋を長男に使わせた。母が退院出来たら、私がダイニングを適当に寝床にすればよい‥と考えていた。
母が帰ってくる場所を無くしてしまうのではないか‥そんな葛藤が「一階使用」を踏みとどまらせていたが、4年以上空家同然の一階‥父や母がお気に入りだった家‥自慢だった家は「保存」ではなく「活用」してこそ喜ぶ‥そう思って一階使用を実行した。
そして、実際「母が帰宅する日」を迎えた。母の居場所はしっかり確保していたので、慌てずに母を迎え入れることができた。ただその時、既に母は息をしていなかった事だけが残念だった。
二世帯住宅最後の日 4日間の母の部屋
母が亡くなったのが日曜日の23時、病院から帰宅したのは明けて月曜日の1時。それから木曜日に葬祭場へ入るまでの4日間は一階部分の母の部屋は本来の役割を果たした。横たわっている母の隣で、私は葬儀の準備と、忌引休暇を取りつつ片付いていない仕事をリモートで行っていた。
母は本当に眠っているようだった。ふとした瞬間に目を開いて「ご飯まだ?」と言い出してもおかしくないような感覚が何度もあった。こんなに長い間、同じ部屋で母と時間を過ごしたのは初めてかも知れない。いや、私が乳幼児のころはきっとそうだったのだろうが‥それ以来‥かな?
最後の最後にこの家が二世帯住宅として機能してくれて良かった。
お通夜当日の午後、母は葬祭場へ出発‥と同時に二世帯住宅の終焉を迎えた。「肉体は滅んでも魂は生き続ける‥」その辺の考え方もあるのだろうが、そこに固執するのは、あまり好きではない。私や子供たちの記憶に残り続ける限り、見守っていてもらえる‥そう考えられれば良いのだと思う。二世帯住宅はこれで終わりである。
家内や子供たちと相談であるが、落ち着いたら「一階」と「二階」を総入れ替えしようと考えている。仏壇や位牌、両親・ご先祖の品々は二階の居間に移動し、そこを私の部屋と兼用にしようと思う。
見晴らしの良い暖かい部屋で、いつまでもゆっくりしてほしい。


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