人間関係における格・ランクの意識
思えば中学・高校生の頃からだったと思う。「友達」という存在との向き合い方に悩んだ時期があったが、これは概ね誰でも通る道ではなかろうか。親、親戚、先生、友達、先輩、後輩、子供・・人生にはいろいろな人間関係がある。
それとは別に、良くも悪くも相手に対して「格」「ランク」を探る一面が人にはあると私は思う。これを論じることは大いに賛否が分かれるだろう。また、身分を公表しないブログでこのようなことに触れる自分の格こそ低俗なのであろうが、今回はそれには触れない。
ここでは私が今まで生きてきた中で、人の「格」を意識する部分があり、その結果として良かった部分とそうでなかった部分を書いてみたい。
格下の人間とばかり付き合う理由
振返って考えてみると、私は基本的に格下の人物と人間関係を構築しようとする傾向があった。格上・目上との関係は最小限に留め、また、その最小限の中でも継続してウマク付き合えた関係はほとんどない。。かといってケンカするわけではない。社会的に必要とされる期間は継続するが、それ以上はない。必要なくなれば終わる関係。要するに「最小限」で終わるのだ。
なので、友達や恋人といった自由な人間関係においては、基本的に自分よりも能力が低そうな人、我の強くなさそうな人を選んできたように思える。
ネットなどで調べると、そのような人物(格下の人とばかり付き合おうとする人)は、自尊心が強く、自分を否定されることを強く拒み、また、優越感に浸りたいがために格下と付き合おうとするなどなど・・散々な言われ方である(涙)
まぁ・・もちろん、そんな部分もあるのだろうが、私としては、新しい人間関係ができそうな時、直感的に相手は「自分のペースを乱す可能性」があるかどうか・・を見ていたような気がする。
「自分のペースを乱さない人」は「安心」だからだ。
格下との付き合いで良かったところは
結果的に「選んだ」人物のほとんどが「格下」だった。自分のペースを乱さない存在、自分の意見を通してもなんらトラブルになったりしないであろう存在。。そんな人物のみ自分の周りに置く・・こーゆーのを「人見知り」というのかも知れない。
結局、人間関係において、大きく振り回されて悩むようなことはほとんどなかった。人との関係においては、会社での上司との関係以外は自分でコントロールできるレベルで対処できるからだ。「悩みが少ない」という面においては「良かったところ」と考えていいのだと思う。
長くなったが、ここからが本題。本音である。
格を結婚相手にも持込んでしまった
私は結婚においても「格下」の考えを持込んでしまった。今のところ、このことに関して後悔の念が強い。安心・安全であろう女性を選び、友人から入って人間関係を構築し、やがて恋人になり、ほぼ断られる可能性がないであろうプロポーズをして結婚に至る。。
付き合って3年で結婚。結婚生活も順調。子供も2人産まれた。家内は金遣いが荒いわけでもなく、贅沢なわけでもない、人間関係も異性関係も派手な部分はない。要は、自ら家庭を乱したり、経済的に破たんさせるような要素は持っていない。私としては私のペースを乱さない安心な存在。「格下」の存在なのだ。
ただ、自分のペースを乱さないだけではない。安心なだけではない。あくまでも格下は格下。それは人としての総合力やモラルにも影響する。能力が格下なら人間性も格下。こんな簡単なことに長く気付かなかった。そして、気付いてももう手遅れだった。
家内に抱いた強い不信感
今思えば、最初の子供が産まれて3、4年したころからだろう、家内の子供に対する接し方に大きな違和感を覚えた。長くなるので詳しくは書かないが、夫婦の修復し難い溝が生じたのはこの頃であると思って間違いない。
その数年後、私の母親の在宅介護を廻って溝は決定的となった。完全に心は離れ、現在は必要ななこと以外は会話もない状況に陥っている。そのような状況となってもう5年になる。母は2年程前に他界した。
当時、病気を理由に特養から退居させられた。病気の進行が緩やかだったため、病院への入院も断られた。残された道は在宅介護。要介護5だった介護保険の適用範囲をすべて使い、訪問ヘルパーさんに1日2回来てもらい、私は会社を続けながら在宅介護を行う。下の処理はヘルパーさんと私が行い、食事は高齢者用の宅配食を利用。尽くせる手の限りを尽くしての在宅介護態勢を整えた。
そんな状況でも、家内が私のサポートに前向きでなかったことは態度で察した。たった2ヶ月しかない在宅介護期間(母が体調不良となり緊急入院したため)であったが、その時に私が感じた家内への不信感はいまだに消えない。夫婦としての感情など皆無。離婚しないのは子供たちを不憫に思うからである。
人間性やモラルだけが格上なんてことはない
能力が格下ならモラルも格下。
前者には結婚前から気付いていた。でもそれは自分がカバーすればよいことと考えていたが、後者には気付けなかった。
「特養からの退去依頼」は私としては完全な想定外だった。
不測の事態に遭遇し、仕事と介護の板挟みになっている私を目の前で見ていたにもかかわらず、私が面と向かって状況を説明し助けが必要である旨を話しても承知できなかった家内・・その心境は私には理解できなかった。もし、逆の立場であれば私は積極的に協力したと思うのだが、家内はそうでなかったようだ。
問いただしても明確に答えようとしない家内。言葉の端々を捉えると「できないからやらない」「分からないからやらない」それでいいと思っている節がある。自分の能力以上のことは分からないのだから・・
やらなくていい。
格下をパートナーに選んだ末路
会社でもプライベートでも「分からないこと」は分かるように取り組んでできるようになる・・これが進歩につながるのではなかろうか。私自身はそんな風に考えている。これをしない人物をパートナーに選んでしまった私。。
自分のペースを乱さない人物は、
困っている自分に手を差し伸べることもできない
そんなことを実感したのが40代後半、結婚10年以上経過してからのことだ。たぶん、格下のパートナーは私自身が倒れても私の手助けはしないであろう。
もちろん、当初から家内をアテにするようなするような発想などない。母親の介護の時も同じだった。家内に手伝わせるようなことはあってはならないと思っていたが、当時は不測の事態(特養からの退去依頼)が起こった上でのことだった。
「介護問題」とは性質が少し違うのではなかろうか。夫婦として、家族としての信頼関係の問題であると私は思う。
要するに今のパートナーは「困った時に頼れない」ということ。それが経済的なことではなく、命に関わる身体的なことであっても。。これを夫婦と呼んでいいのだろうか。私は大いに疑問を感じる。
これが、格下をパートナーに選び、安心安全な生活を送ろうとした私自身の末路である。







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