2022年3月19日土曜日

16年目の父命日 不思議に感じた最後の急変

16年目の命日 もう16年 早いものだ

今日は16回目の父親の命日だった。もう16年経つのだ。。当時1歳だった長男は17歳。生まれていなかった次男は12歳。長い時間が過ぎたのだと実感せざるを得ない。今日の休暇は午前中早々に墓参りに行った。


いつも命日には「亡くなったその時」の事をどうしても思い出してしまう。命日に限るわけではないのだが、この日は色濃く思い出してしまう。そして、表題にも書いた父の「最後の急変」には今でも不思議に思っていることがある。


急に倒れて急に亡くなった父

10年近く病気や認知症と戦った母とは違い、父は「ある日、急に倒れて急に亡くなった」のだ。それまで普通の元気な生活を送っていたのに、脳内出血で急に倒れ、救急車で運ばれ、一度も意識が戻ることなく一週間後に亡くなった。当時、あまりのショッキングで急な出来事にどのように対応してよいのか・・悲しみと戸惑いで自分が委縮してしまっていることを強く感じたものだった。


最初の急変は自宅だった。この時、重篤な脳内出血で、緊急開頭手術、緊急輸血が必要と医師から話があった。家族で検討する余地もなく輸血の同意書にサインした。

2回目の急変は2日後の早朝だった。医師から「出血が脳幹に達してしまい、脳幹が機能を失った」と言われたのだが、混乱している母と私の耳に入っていなかった。

その日に集中治療室から一般病棟に移ったのは、病院からしてみれば「最期のお別れのため」という意図だったのだろうが、母と私は「入院時よりも顔色もよく血圧も平常時レベルである。助かったんだ。回復するんだ。」と思ってしまっていた。


小康状態の中で母と話した今後

2回目の急変から3日ほど小康状態が続いた。3日目の夕方に母と今後の話をした。父が倒れてから5日ほど会社は休んでいたのだが、小康状態が続くのであれば、会社を休んでばかりはいられないので、明日から出勤しようと。


ここで、母が「私は病室でおとうさんを見守りたい」と言い始めた。当時、既に足腰が弱り、外出時には車椅子を使っていた母であった。母の体力から考えると病室で寝泊まりするのも得策ではない、母の希望は「私が出勤前に母を病院に連れて行き、会社から帰宅後に病院に迎えに行く」というものだった。


私は承諾したのだが、一抹の不安を覚えた。


当時、通常でも1時間半程度の通勤時間であった。自宅から病院まで往復して車椅子の母を病室まで連れて行って帰宅するまでには1時間程の時間を必要とする。8時30分の出勤時間に間に合わせるためには、4時頃起床しなければならない計算になる。しかも、仕事の状況を考えれば、夜は12時前後の帰宅時間になることは容易に想像できた。


この生活を続ければ、私が倒れるかも知れない。。


そう思ったが、やるしかなかった。


最後の急変は父の意図なのか

しかし、その日の夜に、父の「最後の急変」が起こった。130台で安定していた血圧がどんどん低下していく。下がっては止まり、止まってはまた下がる。。そして、次の日の明け方に父は亡くなった。


この時、言い知れぬ悲しみと無力感の中で不思議に思ったことがひとつあった。3日間安定していた血圧が、なぜ急に低下の一途を辿ったのだろうか。何か意図すら感じるようなタイミングと容態の悪化だった。


意図・・・とは・・・


誰の意図・・・


まさか父の・・・


夕方に母と私で交わした「今後の話」は父が横たわるベッドのすぐ隣でしていた。父に意識があれば普通に聞こえる場所である。でも父は昏睡状態である。


まさか・・・聞いていたのか・・・


それとも、通勤前後に毎日母を病院へ送り迎えする時間的・体力的な厳しさに躊躇した私の気持ちが何らかの形で父に伝わったのか・・・状況を察して、家族に負担をかけたくないという気持ちから、父は自らの命をコントロールして去って行ったのか。


もはや絶対に真相などわかるはずもない。そして、その「タイミング」は単なる偶然である可能性の方が高い。考えても無駄である。永遠に結論は出ない。


命日が来るたびに・・・そんな思いに耽ってしまうのだ。



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